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盛岡地方裁判所 昭和46年(わ)143号 判決 1975年3月11日

被告人

隈太茂津

市川良美

主文

被告人隈太茂津を禁錮四年に、同市川良美を禁錮二年八月に処する。

訴訟費用は被告人らの負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人隈太茂津は、昭和三四年四月航空自衛隊に入隊し、第一、第二各初級操縦課程、基本操縦課程、戦闘機操縦課程、第二初級操縦教官課程、計器飛行教官課程、F―86Fジェット戦闘機操縦教官課程をそれぞれ終了し、その間上級操縦士の資格を取得し、一等空尉として昭和四六年七月一日第一航空団松島派遣隊飛行隊に配置され、同隊の教官として同隊に配属された戦闘機操縦課程訓練生に対する編隊飛行訓練等のため、F―86F型ジェット戦闘機を操縦する業務に従事していた。被告人市川良美は、昭和四三年三月航空自衛隊に入隊し、第一、第二各初級操縦課程、基本操縦課程をそれぞれ終了し、その間操縦士の資格(PJ陸単三〇トン未満航空従事者技能証明)を取得し、二等空曹として昭和四六年五月八日第一航空団第一飛行隊に所属を命ぜられて、戦闘機操縦課程の履修を開始し、同年七月一日から前記松島派遣隊飛行隊に配属されて引き続き同課程における訓練として編隊飛行等を修得するため、右戦闘機を操縦する業務に従事していた。

被告人両名は、同年七月三〇日、被告人隈を教官、被告人市川を訓練生とする二機編隊により、同日午後一時三〇分から同二時四〇分までの間、有視界飛行方式による編隊飛行訓練として、離陸後基本隊形(ノーマル・フォーメーション)、疎開隊形(スプレッド・フォーメーション)の各飛行を行つた後、同日訓練の必要上臨時に設定された「盛岡」訓練空域付近で、当日の主たる訓練課目である機動隊形(フルード・フォア・フォーメーション)の訓練飛行を実施し、終了後単縦陣隊形(トレール・フォーメーション)及び同隊形による曲技飛行(トレール・アクロ)の各飛行を行つて飛行場へ帰投し、自動方向探知器による進入訓練を行うとの訓練計画のもと、被告人隈が同戦闘機(F―86F―40型)の編隊一番機(以下隈機と略称する)に、被告人市川が同二番機(四機編隊の場合の三番機、以下市川機と略称する)に各搭乗し、同日午後一時二八分ころ、宮城県桃生郡矢本町所在の松島飛行場二五滑走路を離陸し、基本隊形で上昇しつつ同県石巻市東方海上から同県栗原郡築館町付近上空に至り、更に上昇を続けながら疎開隊形の飛行を続け、同日午後一時四五分ころ、岩手県和賀郡湯田町内通称川尻付近上空に達し、そのころから機動隊形の編隊訓練を開始し、隈機は、高度約二五、五〇〇フィート(約七、七五〇メートル)、速度マッハ約0.72(真対気速度約四四五ノット、時速約八二四キロメートル)で、ほぼ水平の旋回飛行を行い、市川機は、隈機の一〇度ないし三五度後方の、高度差約三、五〇〇フィート(約一、〇六〇メートル)から約二、五〇〇フィート(約七六〇メートル)の間の上空に位置し、隈機の動きに応じて、速度マッハ0.70ないし0.74(真対気速度約四三三ノットないし四五七ノット、時速約八〇二キロメートルないし八四六キロメートル)で、同機の左右に位置を移動させつつ旋回飛行する機動隊形の飛行訓練を四回位繰り返しながら北進し、同日午後二時少し前ころ、岩手県岩手郡雫石町付近上空に達し、同所付近で、隈機は、更に北進を続けつつ約一八〇度の右旋回をした後約一五秒間直進し、次いで左旋回を開始し、市川機は、前記右旋回開始時、隈機の右側後方の上空に高度差約三、〇〇〇フィート(約九一〇メートル)をとつて位置し、隈機の右旋回開始と同時に、右機動隊形の飛行要領に従い、速度を高度に換えて隈機の上空を通過して旋回の外側に移行し、続いて高度を速度に換えて隈機の後方を通過し、約一八〇度旋同終了時点で、隈機に対して旋回開始前とほぼ同じ関係位置に戻つたうえ、隈機に従つて直線飛行をし、次いで左旋回が開始されるや、高度を速度に換えながら隈機の後方を通過して旋回の内側に移行した(別紙第三の図面参照)。

他方、計器飛行方式による飛行計画のもと、同日午後一時三三分千歳飛行場一八L滑走路を離陸した全日本空輸株式会社所属千歳発東京国際空港行第五八便ボーイング式727―200型ジェット旅客機(以下全日空機と略称する)は、千歳ターミナル管制所のレーダー管制を受けて函館NDB(無指向性無線標識施設)北東約二八マイル(約五二キロメートル)の地点を通過し、同日午後一時四六分同NDB上空、高度約二二、〇〇〇フイート(約六、六九〇メートル)の位置に達し、同所で札幌管制区管制所に対しその位置通報とともに松島NDB上空を午後二時一一分に通過する予定である旨の通報を行い、次いで同日午後一時五〇分前記飛行計画の巡航高度約二八、〇〇〇フイート(約八、五一〇メートル)に到達した旨同管制所へ通報をなした後、同機は右高度をマッハ約0.79(真対気速度約四八七ノット、時速約九〇二キロメートル)で、右松島NDBに向かうジェットルート(航空保安無線施設上空相互間を結ぶ高高度管制区における直行経路で、管制間隔として、二四、〇〇〇フィート((約七、三〇〇メートル))以上の高度にあつては航空保安無線施設から一〇〇マイル((約一六一キロメートル))の地点までは当該飛行経路の両側8.7マイル((約一六キロメートル))の幅を保護空域として確保するものとされている。)J11Lを、その管制上の保護空域内西側において南下進行し、同日午後二時少し過ぎころ、前記雫石町付近上空に達した。

ところで、右雫石町付近上空を含む前記「盛岡」空域は、前記のように、松島派遣隊において当日になつて訓練の必要上臨時に設定された訓練空域であるうえ、その東側部分において、千歳から東京に向かうジェット旅客機等の常用飛行経路であつて飛行頻度の高い前記ジェットルートJ11Lに近接しており、且つ、右空域で実施しようとした前記機動隊形による編隊飛行訓練は、上下、左右、前後に大きな飛行空間をとりつつ左右の旋回を繰り返す態様のものであるから、このような位置で右のような飛行を実施し、特に右J11Lに接近するようになつた場合は、被告人両名とも、一段と周囲の見張りを厳重にする必要があつた。そして

一  隈機が、右空域付近において、前記直線飛行に入つた接触約四四秒前の時点から直線飛行を終え左旋回に移行した後接触約二七秒前の時点までの間、全日空機は右隈機の上方約七六二メートルで、右方約六七度から約八一度、距離約七、九三七メートルから約三、七七八メートルの位置にわたつて水平直線飛行を継続していたもので、少なくとも右の間に隈機から全日空機を視認することが可能であり、且つ同機は自己が監視する市川機から見て、右約四四秒前の時点で後記認定の位置に、右約二七秒前の時点で下方約一三五メートル、右方約六〇度、距離約三、二二一メートルの位置にあつたのであるから、被告人隈は、編隊一番機を操縦する教官として、自機のみならず訓練生である右市川機の各進行方向及びその左右に対する見張りを厳重にして、右の間に、右位置にある全日空機を視認したうえ、これと右市川機との接触を避けるべく、直ちに同機に適切な指示を与えて回避せしめ、もつて事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに、市川機に対する追随監視に注意を奪われて、右見張りを十分に行わないまま飛行を継続したため、右の間に全日空機を視認せず

二  市川機が前記空域付近において、前記直線飛行に入つた接触約四四秒前の時点からその最後である接触約三〇秒前の時点までの間に右直線飛行を継続中、全日空機は右市川機の下方約一五八メートルで、右方約五八度前後、距離約七、四八二メートルから約三、九五六メートルの位置にわたつて水平直線飛行を継続していたもので、少なくともその間に市川機から全日空機を視認することが可能であつたのであるから、被告人市川は、訓練生とはいえ編隊二番機を単独操縦する操縦士として、少なくとも自機の進行方向及びその左右に対する見張りを厳重にして、右の間に、右位置にある全日空機を視認したうえ、これとの接触を避けるため、直ちに適切な回避操作をとり、もつて事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに、隈機との関係位置を保持することに注意を奪われて、右見張りを十分に行わずに飛行を継続したため、右の間に全日空機を視認せず。

それぞれ前記各飛行を続行、被告人隈は、同日午後二時二分過ぎころ市川機のすぐ斜め後方にある全日空機をようやく発見し、直ちに市川機に接触回避の指示を与え、被告人市川も、同時ころ、自機の右側一二〇度から一五〇度の方向至近距離に右全日空機を認め、左旋回急上昇して衝突を避けようとしたが及ばず、その直後ころ、市川機の右主翼などを金日空機の尾翼部分に衝突破壊させ、よつて右両機を操縦不能ならしめて前記雫石町付近の地上に墜落させ、その際の衝撃等により、別紙第一被害者一覧表記載のとおり、全日空機に搭乗していた池田静江ほか一六一名を全身挫滅傷等により右墜落地点付近において即死するに至らせた。

(証拠の標目)<略>

(法令の適用)

被告人両名の判示所為中業務上過失致死の点は刑法二一一条前段、昭和四七年法律六一号による改正前の罰金等臨時措置法三条一項一号、刑法六条、一〇条に、航空法違反の点は昭和四九年法律八七号五号二項、附則2による改正前の航空法一四二条二項、刑法六条、一〇条に該当するか、右は一個の行為で数個の罪名に触れる場合であるから、刑法五四条一項前段、一〇条により一罪として最も重い別紙第一被害者一覧表番号10の者に対する業務上過失致死罪の刑で処断することとし、所定刑中禁錮刑を選択し、その所定刑期の範囲内で被告人隈太茂津を禁錮四年に、同市川良美を禁錮二年八月に各処することとし、訴訟費用は刑事訴訟法一八一条一項本文により被告人らの負担とする。

(本件事案における事実上及び法律上の判断)

第一航空自衛隊における飛行教育訓練制度と被告人両名の経歴及び訓練過程

一航空自衛隊における飛行教育訓練

<証拠略>によれば、以下の事実を認定することができる。

1 航空自衛隊における飛行教育訓練の組織及び制度

(一) 航空自衛隊は、航空幕僚監部と各部隊及び各種学校等の機関をもつて編成される。部隊は、航空総隊、飛行教育集団、保安管制気象団、その他の長官直轄部隊により構成される。右のうち、航空総隊が実動部隊であり、航空総隊司令部及び各航空方面隊その他の直轄部隊から成る。各航空方面隊は、更に航空方面司令部及び各航空団その他の部隊から成る。これと並んで、航空自衛隊における航空機操縦者の養成教育を担当しているのが、飛行教育集団であり、飛行教育集団司令部及び航空団、飛行教育団その他の直轄部隊から成り、昭和四六年七月の本件事故当時、第一航空団、第一一飛行教育団、第一二飛行教育団、第一三飛行教育団等の部隊があつた。

(二) 航空自衛隊における航空機操縦者養成教育、飛行訓練に関する業務は、「航空自衛隊の教育訓練に関する訓令」(昭和四一年三月二九日訓令第三号)に基づいて行われている。これによると、航空自衛隊における教育訓練は、基本教育及び練成訓練に区分され、基本教育は、部隊等における職務遂行の基礎となる知識及び技能を修得させることを目的として、一般教育及び技術教育が行われ、練成訓練は、部隊における隊員の練度を向上し、部隊練成を目的として個人練成訓練、部隊練成訓練が行われる。右の基本教育の一環として実施される飛行訓練教育は、初級操縦教育、上級操縦教育、初級戦技教育、上級戦技教育、その他の飛行教育に区分されている。初級操縦教育としては、第一初級操縦課程、第二初級操縦課程、基本操縦課程、初級計器飛行課程などが、上級操縦教育としては、第一初級操縦教育課程、第二初級操縦教官課程、基本操縦教官課程、計器飛行教官課程などが、初級戦技教育としては、戦闘機操縦(F―86F)課程などが、上級戦技教育としては、F―86F戦技課程、F―104戦技課程等がおかれている。

右基本教育に関する細目は、「航空自衛隊の基本教育に関する達」(昭和四一年七月一日達第一八号)に定められている。これによると、操縦英語課程を修了した学生は、第一初級操縦課程において、約一四週間、飛行時間三〇時間のT―34機による飛行教育を修め、次に第二初級操縦課程において、約二六週間、飛行時間九〇時間のT―1機による飛行教育を修め、さらに基本操縦課程において、約二八週間、飛行時間一二〇時間のT―33機による飛行教育を修め、次いで初級戦技教育の戦闘機操縦(F―86F)課程に進み、約二四週間、飛行時間八三時間のF―86F機による飛行教育を修めて、各実動部隊に配置され、その後は、必要に応じ、他の課程ないしさらに上級の課程を履修していくものとされている。

本件事故当時は、飛行教育集団に属する部隊のうち、第一一飛行教育団、第一二飛行教育団に第一初級操縦課程が、第一三飛行教育団に第二初級操縦課程が、第一航空団に基本操縦課程、戦闘機操縦(F―86F)課程等が、それぞれ設置されていた。

(三) 防衛庁では、「航空従事者技能証明及び計器飛行証明に関する訓令」(昭和三〇年三月三〇日訓令第二一号)により、航空業務に関する技能の基準を定めている。これによると、航空機操縦等の航空業務に従事する自衛隊員は、長官の航空従事者技能証明を受けなければならず、さらに航空従事者のうち、計器飛行を行おうとする者は、長官の計器飛行証明を受けなければならない。航空従事者技能証明は、高級操縦士、上級操縦士および操縦士等の種類があり、その者の技能に応じ、その者の乗り組むことができる航空機の種類、等級、及び型式の限定を行つてなされる。計器飛行証明には、計器飛行証明(白)及び計器飛行証明(緑)の種類があり、それぞれ実施し得る計器飛行の種類を指定して付与される。自衛隊における航空業務は、これらの当該航空業務にかかる技能証明を有する航空従事者でなければ行つてはならず、右以外には、航空業務に関する技能の習得を命ぜられている隊員が、当該業務の教育訓練に従事する者の指導の下に、その指定された航空業務を行うことのみが許される。

航空従事者技能証明のうち、操縦士の資格は、自衛隊における正規の操縦教育課程を修了した者等に与えられ、上級操縦士の資格は、操縦期間が七年以上、飛行時間が二、〇〇〇時間以上、操縦士技能証明及び計器飛行証明(緑)を有する者に与えられ、また、計器飛行証明(白)の資格は、自衛隊における正規の計器飛行教育課程を修了した者等に与えられ、計器飛行証明(緑)の資格は、操縦期間が五年以上、飛行時間が二、〇〇〇時間以上、計器飛行証明(白)を有し、計器飛行を行つた飛行時間が一〇〇時間以上の者が、試験に合格した場合に与えられる。

2 第一航空団松島派遣隊の組織及び飛行教育訓練

(一) 浜松市所在の第一航空団は、飛行教育集団司令部隷下の教育部隊であり、T―33機による基本操縦課程、F―86F機による戦闘機操縦課程等の飛行教育訓練を行つていたが、本件事故直前の昭和四六年七月一日より、F―86F機による戦闘機操縦課程の飛行教育の一部を、宮城県桃生郡矢本町所在の第四航空団所管の松島飛行場を基地として行うべく、松島派遣隊を発足させた。同派遣隊は、F―86F戦闘機操縦課程のほか、F―86F戦技課程も担当し、派遣隊長の下に、飛行隊長、飛行班長、F―86F戦技課程教官、F―86F戦闘機操縦課程教官、戦技課程訓練生、操縦課程訓練生等により構成されていた。

(二) 当時、第四航空団は、航空総隊司令部隷下の中部航空方面隊所属の実動部隊であり、松島飛行場を基地として所定の部隊活動ならびに練成訓練を行つていた。第一航空団松島派遣隊発足にあたり、松島飛行場を両部隊が共用することになるため、第四航空団司令、第一航空団松島派遣隊長および松島管制隊長の三者は、協議のうえ、「第一航空団松島派遣隊の飛行訓練等の実施に関する運用要領」を定めた。これにより、第一航空団松島派遣隊の飛行教育訓練は、訓練空域について「第四航空団飛行訓練規則」(昭和四六年第四航空団達第一五号)を準用し、飛行訓練計画等について第四航空団との調整会議において調整し、日々の飛行訓練実施について、その使用空域配分の調整をすること等が定められた。

(三) 第一航空団は、飛行訓練の効果的かつ安全な実施のために、通則的事項を「第一航空団飛行訓練規則」に定めているが、その詳細については飛行群司令等に委ねている。第一航空団松島派遣隊は、同規則に基づき、松島飛行場における飛行訓練について「飛行訓練準則」を定めた。同準則の作成にあたり、同派遣隊においては、右「第一航空団訓練規則」に基づくとともに、前記運用要領により、「第四航空団飛行訓練規則」との調整を図つた。これによると、同派遣隊における飛行訓練につき、(イ)所定の教範に準拠して実施されるものとする、(ロ)飛行訓練実施の間、第四航空団飛行群指揮所施設内に派遣隊指揮所を開設し、その統制の下に、無線による訓練機等に対する監視、助言、通報等を行うモービル・コントロールを実施する、(ハ)飛行訓練は、月間、週間及び日々の飛行訓練計画を作成して行う、(ニ)飛行訓練は、原則として、訓練空域(同準則別紙第一の松島局地飛行空域及び同第二の局地飛行訓練空域である「気仙沼空域」、「相馬空域」、「米沢空域」、「月山空域」、「横手空域」)で実施する。(ホ)飛行制限空域(同準則別紙第三の空域、ジェットルートJ11Lの両側五マイル内の二五、〇〇〇ないし三一、〇〇〇フィートの空域を含む。)内での飛行訓練は、やむを得ない場合を除き実施しない、(ヘ)飛行訓練の間は、見張りを厳重にし、他の航空機への異常接近を防止しなければならない、等の事項が定められた。なお、同準則における訓練空域及び飛行制限空域は、「第四航空団飛行訓練規則」のそれと同一範囲の空域である。

3 航空自衛隊における航空安全指導

防衛庁は、自衛隊における航空機の安全な運航を確保するため、「航空機の運航に関する訓令」(昭和三一年六月一四日訓令第三四号)を発し、航空自衛隊では、これを受けて「航空機の運航に関する達」(昭和四五年一月二六日達第三号)を定めたが、その中で他機との接近による事故防止のため「航空機は、航空路その他の常用飛行経路およびその付近においては、特に見張りを厳にして他の航空機への異常接近を予防しなければならない。」との規定等を置いている。前記訓練空域及び飛行制限空域等の設定も、この通達の趣旨に基づくものであつて、航空自衛隊における航空安全指導の要点は、航空機間の異常接近の防止と、そのための航空機操縦者等の諸法規の確実な遵守と見張りの厳守にあつた。また、航空自衛隊においては、昭和三八、九年ころから航空機の異常接近が問題となるにつれ、航空幕僚長等から再三航空安全に関する通達等が発せられ、各年度毎にこれを集成して飛行安全資料「指導の参考集」を作成し、各部隊に配布して隊員個個に対する指導、周知徹底を図つていた。航空総隊においても、飛行安全資料「異常接近防止について」を作成し、その隷下の各部隊、隊員に対する指導を行つていた。これらの通達では、自衛隊機による他の航空機への異常接近の事例が見受けられるので、これを防止するため訓練空域を厳守し、且つ見張りを実施すること(昭和四一年三月七日航空幕僚長通達)、航空路ないし高々度管制区ジェット・ルート等においては民間ジェット大型機の運航がふくそうしており、かつこれらの大型機は急激な回避操作が困難であることから、特に見張りを厳重にし、早期自主回避を適切に実施すること(昭和四二年一月二四日航空幕僚長通達)等が強く指摘ざれていた。そして、航空安全に関する啓蒙誌として月刊誌「飛行と安全」が発行され、広く各部隊、隊員に配布、閲覧に供されていた。

このような航空安全に関する指導は、養成教育の段階においても重視され、各教育課程における操縦学科教育の中に飛行安全の課目が設けられていたほか、操縦訓練においても、その技能の段階に応じた飛行安全に関する技術指導がなされていた。

第一航空団松島派遣隊においても、発足と同時に、「昭和四六年度航空及び地上事故防止について(通達)」を作成し、年度事故防止計画を立案実施していたものである。これによると、(イ)松島基地の特性に応じた訓練計画、(ロ)関連部隊との調整、(ハ)訓練生の進度に応じた段階的教育の実施、等が強調され、特に七月の月間重点事項は、訓練生の進度に応じた訓練計画の立案とされていた。また同派遣隊では、飛行安全係が設けられ、毎月安全会議を開催して、安全業務の遂行が図られていた。そして教官室、訓練生の控室等には「飛行と安全」誌が備え付けられて、閲覧に供されていた。また、飛行教育集団司令部は、「昭和四六年度における航空事故及び地上事故防止について(通達)」により、異常接近防止を含む安全対策上の重点事項を指示し、特に第一航空団松島派遣隊に対し、同年一〇月に飛行安全(飛行教育)特定監察を実施する予定である旨示達していた。

二被告人市川の経歴と訓練過程

<証拠略>及び前記一記載の事実によれば、次の事実が認められる。

1 被告人市川の経歴

被告人市川良美は、昭和二三年一〇月二三日長野県に生まれ、昭和四二年三月長野県立飯山北高校を卒業後、同年一〇月頃航空自衛隊航空学生募集試験に合格して、翌昭和四三年三月二一日、航空自衛隊に入隊した。航空自衛隊では、同日、二等空士に任命されるとともに航空学生として飛行教育集団司令部付、航空学生教育隊に教育入隊を命ぜられ、第二四期航空学生基礎課程の履修を行うこととなつた。そして昭和四三年九月一等空士に、昭和四四年三月空士長にそれぞれ昇任し、同年六月二四日、航空学生基礎課程を修了した後、幹部候補生学校に入校を命ぜられ、操縦英語課程を履修し、同年一〇月三日、同課程を修了して第一一飛行教育団に教育入隊を命ぜられた。同隊において、第一初級操縦課程を履修し、昭和四五年一月三一日、同課程を修了後、三等空曹に昇任し、飛行幹部候補生を命ぜられるとともに第一三飛行教育団に教育入隊を命ぜられた。第一三飛行教育団では、第二初級操縦課程を履修し、同年八月一五日、同課程を修了し、第一航空団に教育入校を命ぜられ、基本操縦課程を履修した。第一航空団において、同年一一月一日二等空曹に昇任し、翌昭和四六年五月八日、基本操縦課程を修了した。そして同年四月三〇日付で航空従事者技能証明を受け、PJ陸単重量三〇トン未満操縦の限定で操縦士の資格を取得した。同年五月八日、あらためて第一航空団に教育入隊を命ぜられ、第一〇九期戦闘機操縦課程の履修を行うこととなり、同年五月三一日、計器飛行証明(白)の資格を取得して、同課程の履修に従事していたものである。

2 入隊以後の教育訓練過程

(一) 航空学生基礎課程及び操縦英語課程

福岡県遠賀郡芦屋町航空自衛隊芦屋基地所在の航空学生教育隊における航空学生基礎課程では、約一〇一週にわたり、精神教育、服務、防衛学等の科目を履修し、特に航空機操縦者としての適性検査後同乗飛行による素質検査を受け、学科においても、英語、数学等の他、航空機工学、気象学等を履修した。その後、奈良市法華寺町所在の幹部候補生学校における操縦英語課程では、約一七週間、操縦英語、精神教育、服務、教練、体育等の科目を履修したが、その主たるものは操縦英語の履修にあつた。そして同課程を修了する際、その成績によりA、B、Cの三コースに分けられたうち、Aコースに入り、戦闘機操縦の候補者に指定された。

(二) 第一初級操縦課程

静岡県藤枝市大井川町航空自衛隊静浜基地にある第一一飛行教育団には、初級操縦教育第一初級操縦課程が設けられているが、被告人市川は、前記Aコース二〇名のうち七名とともに同教育団に教育入隊した。同課程は、約一四週の教育期間があり、操縦訓練においてT―34航空機(単発プロペラ練習機)により有視界飛行の基本操縦法を修得させ、操縦学科教育において右操縦訓練に必要な知識を付与し、幹部教育において将来初級幹部として必要な資質の素地を養成することが教育目標であつた。

操縦学科教育では、操縦学、T―34取扱法、無線器材取扱法等の他、飛行安全、航空法規についての講義があり、航空事故防止に関する事項、航空関係法規や「航空機の運航に関する達」に関する講義も受講、修得した。そして操縦訓練では、飛行準備教育としてT―34機の地上操作、飛行訓練規則等が指導された後、離着陸空中操作の飛行訓練が行われ、その他リンク訓練も行われた。この飛行時間は三〇時間、このうち単独飛行は約四時間で、その他は教官の同乗飛行である。右飛行訓練は、最初に地形慣熟飛行をした後、基本操作として離陸、上昇、水平直線飛行、水平および上昇、降下旋回、急旋回等を行い、主失速操作、不時着訓練、スピン、背面および垂直姿勢からの回復操作、最大性能操作による上昇旋回、シャンデル、レイジイエイト、特殊操作としてループ、エルロン・ロール、バレル・ロール、キューバンエイト、クローバ・リーフ、インメルマン・ターン等の曲技飛行、等の演練を重ね、これらのうち基本操作、主失速操作、スピンからの回復等については習熟(安全かつ正確にできる状態)、最大性能上昇旋回、シャンデル、レイジイエイト、不時着訓練等については概成(安全に実施できるが正確性に欠ける状態)、その他については理解(必要な知識を有し演練しているが、安全確実に実施できる域には達していない状態)に達して、最後に離着陸空中操作の検定飛行を受けた。この訓練飛行は、おおむね四、〇〇〇ないし六、〇〇〇フィート位の高度、一三〇ないし一五〇ノット位の速度で行われていた。なお、この間、航空安全につき、見張りによる他機の早期発見と回避について絶えず指導され、また「飛行と安全」誌も配布されて、注意を喚起されていた。

(三) 第二初級操縦課程

被告人市川は、同期生一七名とともに、昭和四五年二月一日、前記芦屋基地所在の第一三飛行教育団に教育入隊し、その第二飛行隊に所属した。第一三飛行教育団には、初級操縦教育第二初級操縦課程が設けられているが、同課程は、約二六週の教育期間があり、操縦訓練において、T―1航空機(ジェット練習機)により有視界飛行及び基本計器飛行の基本操縦法を修得させ、操縦学科教育においては右操縦訓練に必要な知識を修得させ、幹部教育において将来初級操縦幹部として必要な資質の素地を養成することが目標であつた。

操縦学科教育では、T―1機取扱法においてT―1機の機体およびジェットエンジンの構造機能その他の取扱法を、緊急手順において事故発生時における回復法等を、飛行安全において飛行安全管理と事故防止の業務を、航空法規において航空に関する国内法規、自衛隊法規、殊に「航空機の運航に関する達」を、航法において航空図の基礎知識と推測航法の基本手順、地図判読、航法計器盤の用法などを受講、修得した。

操縦訓練では、飛行準備教育として飛行訓練関係法規(飛行訓練準則など)、T―1機の地上操作等の指導を受けた後、離着陸空中操作、編隊飛行、航法、計器飛行等の飛行訓練が行われ、その他リンク訓練、コクピット・トレーナー、コマンダータイムの訓練も行われた。この飛行時間は合せて八九時間で、このうち単独飛行は約九ないし一〇時間で、その他は同乗飛行である。この飛行訓練のうち、離着陸空中操作としては、慣熟飛行がなされた後、基本操作として、離陸、上昇、水平直線飛行、上昇旋回、普通旋回、急旋回、等の演練を重ね、さらに回復操作として背面飛行、高速降下、スピンからの回復操作、特殊操作としてスプリットS、バーチカル・リカバー、エルロンロール、バレルロール、ルーブ、クローバ・リーフ、キューバンエイト、インメルマンターン、最大限性能操作として最大性能上昇旋回、シャンデル、レイジイエイト、さらに高々度飛行(二〇、〇〇〇フィート以上)、夜間飛行等の各演練を受けた。編隊飛行では、編隊基本操作として離陸及び基本隊形による水平直線飛行、旋回、上昇、降下、スピードブレーキ・エクササイズなど、ズーム・ダイブ、ピールオフ・リジョイン(空中集合)、疎開隊形、単縦陣隊形、密集隊形などの演練を重ねた。さらに航法では、高々度航法、低高度航法、夜間高々度航法を、計器飛行では、基本計器飛行およびADF手順を、それぞれ演練した。これらの飛行訓練は、おおむね高度一八、〇〇〇フィート、速度二七〇ノット位で行われていたが、高々度においては二〇、〇〇〇ないし二五、〇〇〇フィート、最高速度約毎時八〇〇キロメートル程度にも達することがあつた。

右訓練飛行のなかで、離着陸空中操作の殆んど、二機編隊二番機としての基本手順、基本操作、基本隊形、基本計器飛行操作については習熟の域に達し、クローバ・リーフ、インメルマンターン、キューバンエイト及び夜間飛行、二機編隊二番機のピールオフ・リジョイン、単縦陣隊形、一番機動作、および航法、ADF手順等については概成の段階に、その余は理解ないし体験に止まるものであつた。また、この間、航空安全についての指導も強められ、飛行訓練の際には必ず見張りと早期回避についての指導が行われるようになり、「飛行と安全」誌も配布されて、事故予防についての注意が絶えず行われていた。

(四) 基本操縦課程

被告人市川は、同年八月一五日、静岡県浜松市航空自衛隊浜松北基地所在の第一航空団に教育入隊し、同期生一六名とともに第三三飛行隊に所属して、初級操縦教育基本操縦課程を履修した。同課程は、約三〇週の教育期間があり、操縦訓練において、T―33A航空機(ジェット練習機)により有視界飛行および計器飛行の基本操縦法を修得させ、操縦学科教育においては右操縦訓練に必要な知識を修得させ、幹部教育においては飛行幹部候補生として必要な知識および技能を修得させることが目標である。

操縦学科教育では、T―33A取扱法においてT―33A機の構造、機能、各装置および操作法を、T―33緊急手順において同機における故障発生時の回復手順などを、飛行安全管理に関する基本事項、航空救難、航空事故例の研究等を、航空法規において航空関係法規、殊に「航空機の運航に関する達」の復習を、計器航法において計器航法による操縦法を、飛行計画等において管制に関する基本的な知識及び航空路図誌の使用法等を、その他交話法、気象等をそれぞれ受講した。

操縦訓練では、飛行準備教育として飛行訓練関係法規(飛行訓練規則など)、空中操作一般、緊急時の手順、地上滑走等の指導を受けた後、離着陸空中操作、編隊飛行、航法、計器飛行の飛行訓練が行われ、その他リンク訓練、コマンダータイムの訓練も行われた。この飛行時間は合せて一二一時間五〇分、このうち単独飛行は約二〇時間であつた。

この飛行訓練のうち、離着陸空中操作は、最初に慣熟飛行により地上操作、基本操作、局地空域の訓練空域、制限危険空域、代替飛行場、著名な地上目標などの指導がなされ、その後、基本操作としては、離陸、上昇、水平直線飛行、上昇旋回、普通旋回、降下、降下旋回等の演練を、最大性能操作としてシャンデル、レイジイエイトの演練を、回復操作として急速降下からの回復、ランナウエイトリムからの回復、バーチカル・リカバーの演練を、特殊操作としてエルロンロール、バレルロール、ループ、インメルマン、クローバ・リーフ、キューバンエイト、スピリットS等の演練を、それぞれ重ね、さらに失速操作、不時着訓練、低速飛行、高々度空中操作(二五、〇〇〇フィート以上)、夜間飛行等の演練を実施した。編隊飛行では、二機編隊による編隊基本操作として、離陸、ピールオフ・リジョイン、トレール、ポジションチェンジ、基本隊形による水平飛行、上昇降下、三〇ないし四五度バンクの旋回、四五度以上のバンクの旋回、疎開隊形、等の演練を、四機編隊による基本操作として離陸、基本隊形による直線水平飛行、上昇、降下、三〇ないし四五度バンクの旋回、スピードブレーキの使用、クロスアンダー、ポジションチェンジなどの演練を、梯形隊形、疎開隊形、単縦陣隊形による基本操作、単縦陣隊形特殊操作、高々度編隊飛行(二五、〇〇〇ないし三〇、〇〇〇フィート)などの演練をそれぞれ重ね、さらに二機編隊による夜間飛行等の演練をした。これら編隊飛行においては、“ステイ・ウイズ・リーダー”の編隊精神が強調され、また編隊飛行の要点としては、(イ)ポジションの確保、(ロ)ルックアラウンド、(ハ)チーム・ワークが指摘された。航法では、高々度航法、夜間高々度飛行、計器航法を演練し、計器飛行では、基本計器飛行、ADFおよびRDF手順、TACAN手順等の演練を行つた。これらの飛行訓練は、おおむね高度二〇、〇〇〇ないし二五、〇〇〇フィート、高々度においては三〇、〇〇〇フィート、速度は毎時八〇〇キロメートル位まで達して行われた。この間、飛行訓練に際しては、その都度見張りによる事故の防止の必要を注意され、また「飛行と安全」誌なども配布されて、訓練中の事故防止のための指導が行われていた。

これらの訓練飛行のなかで、離着陸空中操作、二機編隊の二番機、四機編隊の二番機、四番機の操作、昼間計器航法、昼間および夜間の地文航法、基本計器飛行、ADFおよびRDF手順については習熟し、失速訓練、夜間離着陸空中操作、編隊における一番機操作、夜間編隊飛行、夜間計器航法については概成し、その余は理解ないし体験に止まるものであつた。

これらの課程履修後、操縦学科教育において各科目の試験、および「計器飛行証明試験の実施に関する達」にもとづく計器飛行証明学科試験が行われ、また操縦訓練においても空中操作検定飛行、編隊飛行検定、計器飛行検定が行われた。被告人市川は、右各試験、検定にも合格して同課程を修了し、前示のとおり航空従事者技能証明を受け、PJ陸単重量三〇トン未満(証人佐伯裕章の供述及び航空従事者技能証明及び計器飛行証明の実施に関する達第六条によると航空機の種別をT―34、T―1、T―33に限定されていると認められる)操縦の限定のある操縦士の資格を取得し、計器飛行証明(白)の資格を取得した。

(五) 戦闘機操縦課程(浜松北基地における教育訓練)

被告人市川は、昭和四五年五月八日、同期生六名と共に第一航空団にあらためて教育入隊し、初級戦技教育第一〇九期戦闘機操縦(F―86F)課程を履修することになつた。被告人市川らは、当初第一航空団第一飛行隊に所属し、同年七月一日から第一航空団松島派遣隊所属となり、同課程における教育訓練を受けた。同課程は、既に操縦士の資格を有する学生を対象として、操縦訓練においてF―86F戦闘機(ジェット戦闘機、単座)の基本操縦法を修得させるとともに戦闘機の戦技に関する基礎理論を理解させ、基本戦闘法に熟達せしめ、操縦学科教育において右操縦訓練に必要な戦闘機操縦者としての知識を与え、幹部教育として戦闘航空団勤務遂行に必要な精神、知識、技能等を与えることが目標とされていた。同課程の全教育期間は約二〇週間、うち飛行時間は八三時間の予定であり、操縦訓練においてF―86F機による離着陸空中操作、編隊飛行、計器飛行、航法、空中戦闘、空対空射撃、空対地射撃、防空戦闘などを飛行訓練し、操縦学科教育では、F―86F取扱法、武装及び射爆撃法、防空戦闘、戦術戦闘機の用法、飛行安全等の受講がなされる予定であつた。

被告人市川らの同課程における教育訓練は、当初第一航空団第一飛行隊に所属して、航空自衛隊浜松北基地において行われた。同飛行隊における教育訓練は、主に、操縦学科教育においては、F―86F取扱法で操縦訓練に必要なF―86F戦闘機の構造機能、操作法を、飛行安全において飛行安全に関する責任とその幹部の業務について、飛行計画においてF―86F機の性能データによる飛行計画、航空路図誌の使用法等をそれぞれ履修し、その他交話法、保命法、等についても一部講義がなされた。そして操縦訓練は、飛行準備教育の全課目内容、すなわち飛行訓練実施規則、救命装具、F―86F特性及び地上操作等、慣熟飛行等を履修し、コックピット・トレーナーにおいてF―86F機の正常時および緊急時の操作手順を履修したのち、飛行訓練が行われた。そして同飛行隊における飛行訓練は、同年六月一日より二三日までの間行われたものであるが、最初にT―33機によるチェックアウト(飛行時間五〇分)が実施され、ついでF―86F機による飛行訓練が行われた。このF―86F機による飛行時間は、合計七時間であつた。この飛行訓練では、夜間飛行を除く離着陸空中操作の全課目内容を履修するもので、地上操作、離陸、上昇および上昇旋回、旋回、降下等の基本操作、更にシャンデル、レイジイエイト等の最大性能操作、失速操作、不時着訓練、ルーブ、インメルマン、エルロンロール、バレルロール、キューバンエイト等の特殊(曲技)飛行等の演練をし、その殆んどを習熟するものであつた。同訓練においても、飛行の際には必ず教官からルックアラウンド(見張り)を厳重にするよう指導をうけ、また「飛行と安全」誌が配布されていた他、主任教官から「飛行安全資料指導の参考集」を示されて、よく読んでおくよう指導される等事故防止に対する施策がとられていた。

被告人市川らは、同課程を右の段階まで履修した後、同課程操縦訓練のうちの編隊飛行等を履修するため、第一航空団松島派遣隊所属となり、航空自衛隊松島基地に派遣されることになつた。

3 第一航空団松島派遣隊における教育訓練

(一) 被告人市川ら、第一〇九期戦闘機操縦課程訓練生六名は、同年六月下旬航空自衛隊松島基地に到着し、同年七月一日より発足した第一航空団松島派遣隊に所属して同課程の訓練を開始することになつた。

同派遣隊では、被告人市川ら訓練生が東北地方における飛行訓練がはじめてであることもあり、特に局地慣熟の指導を行つた。同年七月上旬小野寺主任教官は、訓練生全員に対し松島飛行場周辺の地形、局地飛行空域内の著明な目標物(都市、河川、山、湖等)同区域内の航空路、ジェットルートについて説明し、よく記憶しておくよう指示した。そして同月四日ごろ、被告人市川は、猪瀬教官の操縦するT―33機に同乗し、約一時間二〇分にわたり地形慣熟のための飛行をし、金華山、気仙沼、水沢、花巻、山形、米沢、猪苗代湖、相馬など主な目標を指示されて教えられた。また小野寺主任教官は、訓練生達に対し、松島派遣隊の「飛行訓練準則」をおよそ二人に一冊の割合で配布し、その説明を行つた。その中で、(イ)飛行訓練中の見張りの厳守、(ロ)同準則第一、第二図の訓練空域、(ハ)同準則第三図の制限空域等についても説明がなされたほか、「航空路図誌」等により航空路、ジェットルートの位置などを理解しておくように、との指示がなされた。被告人市川は、これらの指導をうけて、飛行の際に携帯する自己の航空図に五つの訓練空域を記入し、また松島基地を中心にして一〇マイル毎の等円を記入し、同地域の地形や遵守すべき空域についての理解に役立てていた。

また、松島派遣隊では、同年七月二日に、第一回の安全会議を開催し、訓練時における事故防止の対策等について検討されていた。同会議には、教官、訓練生ら全員が出席し、「昭和四六年度航空及び地上事故防止について(通達)」に基づいて安全対策についての協議がなされ、飛行安全については異常接近防止に関する当月間の重点実施事項として、(イ)空域の指定、(ロ)見張りの強化、(ハ)第四航空団第七飛行隊とのミーティングによる調整の実施が伝達された。

(二) 松島派遣隊における被告人市川らに対する戦闘機操縦課程の操縦訓練は、編隊飛行課目から開始された。同課目では、基本隊形、疎開隊形、単縦陣隊形、編隊離陸について習熟し、機動隊形(フルード・フオア)、単縦陣特殊飛行、索敵要領について概成することが到達基準とされていた。そして編隊飛行の要領として編隊精神が強調され、(イ)チーム・ワークを守り、リーダーに従うこと、(ロ)ルックアラウンド(見張り)を厳守すること、(ハ)常に正しいポジションを維持すること、がその指導の要点であり、また見張りにより他の航空機を発見したときは編隊僚機に対しボギー・コールをして知らせなければならないことも指導された。F―86F機による編隊飛行訓練は、各回毎の飛行時間が一時間一〇分であるが、第一回目が二機編隊による基本隊形の訓練で、地上滑走、離陸、空中集合、編隊飛行による正常位置、旋回、失速訓練などを演練し、特に編隊精神と基本隊形のポジションの理解に重点を置き、第二回目はさらに同隊形による編隊機動(旋回、上昇及び下降旋回)、及び単縦陣隊形が加わり、第三回目は四機編隊によつてこれらの課目を行うほか、梯形隊形も加わり、これらを第四ないし六回とくりかえして演練し、四機編隊による基本隊形、単縦陣隊形、梯形隊形の正確なポジションと機動に習熟し、高々度(三五、〇〇〇フィート以上)の編隊飛行を概成させられた。その後、七回にわたる疎開隊形の飛行訓練で、疎開隊形のポジション、旋回、上昇、降下を伴う急旋回、高々度(三五、〇〇〇フィート以上)、高速(マッハ0.8以上)、更にトレールアクロ等の演練が行われ、高々度を除いては疎開隊形による編隊飛行も習熟した。この間の被告人市川のF―86F機による飛行時間は一四時間である。

そして被告人市川は、本件事故発生の日から機動隊形(フルード・フォア)による編隊飛行訓練に入つた(当日の訓練経過については後述する。)。

一  被告人隈の経歴と訓練過程

<証拠>及び前記一、二の認定事実を総合すると、次の事実を認めることができる。

1 被告人隈の経歴

被告人隈太茂津は、昭和一五年一月一八日福岡県に生れ、昭和三三年三月福岡市所在の福岡県立修猷館高校を卒業し、昭和三四年四月一六日航空自衛隊に入隊した。同日、操縦学生として航空自衛隊幹部候補生学校所属を命ぜられて、第一二期操縦学生基本課程を履修することになり、翌昭和三五年三月三一日、同課程を修了し、操縦英語課程学生を命ぜられて、同年八月二七日その課程も修了した。同日、飛行教育集団司令部付、第一一飛行教育団に派遣勤務を命ぜられ、第一初級操縦課程を履修することになり、その後同年一〇月二〇日第一二飛行教育団に派遣勤務されて引きつづき同課程を履修し、昭和三六年一月三一日同課程を修了した。次いで第一五飛行教育団に派遣されて第二初級操縦課程を履修し、同年八月三一日、同課程を修了した、更に第一六飛行教育団に教育入隊し、基本操縦課程を履修し、同年一〇月一八日第一七飛行教育団に教育入隊して引きつづき同課程を履修し、翌昭和三七年四月二六日同課程を修了した。そして同日、航空従事者技能証明を受け、RJ陸単重量三〇トン未満(機種T―34、T―6、T―33)の限定のある操縦士の資格を取得し、併せて計器飛行証明(白)の資格を取得した。その後、同年六月一二日第一航空団に教育入隊し、第五七期戦闘機(F―86F)操縦課程の履修をし、同年一二月二二日その課程を修了した。以上の基本教育を終えた後、同日から第四航空団勤務を命ぜられ、その第五飛行隊に所属して実動任務に就いた。昭和三八年一〇月二四日から一二月二五日まで幹部候補生学校に入校して第一八期操縦幹部候補生課程を履修し、昭和四一年三月一六日、第一三飛行教育団勤務となり、第二四期―A(短期)第二初級(ジェット)操縦教官課程の履修を命ぜられ、六月二五日同課程を修了するとともに第二初級操縦教官(T―1)の資格を取得し、飛行教育群第二飛行教育隊に配置された。その後昭和四二年一一月二日第一航空団に教育入隊して第三五期飛行安全幹部課程を履修し、昭和四三年八月五日から飛行場勤務隊兼飛行教育群第二教育隊に配置され、更に昭和四四年二月一七日、飛行教育群第二教育隊兼飛行教育群の配置となり、その後同年七月二八日、第一航空団に教育入隊し、第四九期計器飛行教官課程を履修し、同年一〇月六日同課程を修了して計器飛行教官の資格を取得した。そして、昭和四五年一月二〇日に計器飛行証明(緑)の資格を取得し、同年三月二日には上級操縦士(PJ陸単三〇トン未満)の資格を取得した。同年五月一六日より第四航空団第五飛行隊に配置されていたが、昭和四六年七月一日、T―33―B教育資格(戦闘機操縦((F―86F))課程教官資格を含む。)を取得して一等空尉に任ぜられ、第一航空団松島派遣隊発足により、同派遣隊勤務を命ぜられ、同日より戦闘機操縦(F―86F)課程教官として同課程訓練生の操縦訓練に従事していた。

同被告人のこれまでの総飛行時間は、約二、四八〇時間であり、このうちF―86Fジェット戦闘機による飛行時間は約七三〇時間である。

2 入隊以後の訓練過程

(一) 被告人隈の、操縦学生基本課程、操縦英語課程、第一初級操縦課程、第二初級操縦課程、基本操縦課程、戦闘機(F―86F)操縦課程における各教育、訓練の内容は、被告人市川について認定したところとほぼ同様である。そして、昭和三七年四月二六日に、所定の試験、飛行検定に合格して、前記操縦士の資格、計器飛行証明(白)の資格を取得したものである。

(二) 被告人隈は、第一航空団における戦闘機(F―86F)操縦課程を終了した後、昭和三七年一二月二二日から第四航空団第五飛行隊に所属して実動任務に就いた。これらの実動部隊では、「航空自衛隊の教育訓練に関する訓令」にもとづき、部隊及び個人の練成訓練が行われたものであるが、この練成訓練における年間飛行時間の基準は、操縦士(F―86F機指定)でF―86F機により二〇〇時間、T―33機により四〇時間であつた。その間、昭和三八年一〇月二四日から同年一二月二五日まで、幹部候補生学校で操縦幹部候補生課程を履修している。

被告人隈は、昭和四一年三月一六日から同年六月二五日まで第二初級操縦教官課程を履修した。この課程は、T―1機の操縦に関し専門的かつ高度の知識及び技能を修得し、且つ、教官として必要な知識及び技能、特に教育指導能力を修得して、教官操縦士としての資質を養うことを目的とするもので、操縦または航法訓練約一六〇時間(うち飛行基準時間は約七〇時間)、その他操縦学科、精神教育、防衛学等を履修するものであつた。昭和四二年一一月二日から同年一二月二三日まで履修した飛行安全幹部課程は、飛行安全幹部、航空事故調査係幹部として必要な知識および技能を修得するもので、飛行安全、航空工学、その他の技術教育、および精神教育等を履修するものであつた。昭和四四年七月二八日から同年一〇月六日まで履修した計器飛行教官課程は、T―33計器飛行に関し専門的且つ高度の知識及び技能を修得し、あわせて教官として必要な知識及び技能、特に教育指導能力を修得させるもので、操縦または航法訓練約一六〇時間(うち飛行基準時間は約四〇時間)、その他操縦学科等を履修するものであつた。右の各課程の修了時に、それぞれ、第二初級操縦教官、計器飛行教官の資格を取得し、また所定の試験、検定飛行に合格して、昭和四五年一月二〇日に計器飛行証明(緑)、同年三月二日に上級操縦士の資格をそれぞれ取得している。そして第四航空団第五飛行隊に配置されていた昭和四六年四月から同年六月の間、第一航空団から派遣された土橋国宏他四名の教官が被告人隈らに対する基本操縦及び戦闘機操縦(F―86F)の各教官課程についての練成訓練を行つた。この練成訓練は、操縦訓練として編隊飛行、空対空射撃、空中戦闘、要撃訓練などを実施し、飛行時間は約四五時間であり、その他教官として必要な知識、技能等に関する教育が行われ、特に戦闘機操縦課程の訓練生に対する指導の要点として、(イ)F―86F機による操縦訓練の指導は、訓練生がはじめての単座機による飛行訓練であることを考慮し、初歩的な指導を重視すべきこと、(ロ)編隊としての基礎的事項の訓練を重視し、編隊精神を強調すべきこと等が指導された。そして同年六月二三日右教官練成訓練を修了し、T―33B教官資格(戦闘機操縦((F―86F))課程教官資格を含む。)を得て、同年七月一日より発足した第一航空団松島派遣隊に配置され、戦闘機操縦(F―86F)課程教官の業務についたものである。

3 第一航空団松島派遣隊における飛行訓練の指導

(一) 被告人隈は、前記の教育、訓練を終えたうえ、被告人市川ら第一〇九期戦闘機操縦課程の訓練生に対する操縦訓練を指導する教官の業務を行うようになつたものであるが、その以前第四航空団に配置されていた昭和三七年一二月から昭和四一年三月まで、および昭和四五年五月から昭和四六年六月まで、同じく松島基地を根拠として飛行を行つていたので、同飛行場の局地空域内を頻繁に飛行し、その地形等は十分認識し、また同空域内を通る航空路、ジェットルートの名称、位置などについての一般的知識もこれを有していたと認められる(J11Lに対する認識については後に詳述する。)。そして、第四航空団に配属されていた当時、同航空団訓練規則によつてその訓練空域、制限空域(松島派遣隊のそれと同範囲)についても当時既にこれを了知していた。また昭和四五年九月ごろ、被告人隈は、飛行の際携帯する自己の航空図にこれらの制限空域を記入し、その位置を確認した。松島派遣隊においても、被告人隈は七月二日に開催された安全会議に出席し、同会議終了後、松井飛行班長から同派遣隊の「飛行訓練準則」に関する指導がなされ、同準則に定められている訓練空域、制限空域についての説明をも受けた。また同準則は、同月中旬頃、教官室にも備えつけられて、被告人隈もこれを閲読した。

(二) 松島派遣隊における飛行訓練は、毎週土曜日に翌週に行う訓練計画が示され、飛行訓練の前日に担当教官と訓練生、実施課目、燃料量、コールサイン等が指示され、その当日になつて使用周波数、使用する訓練空域の指定等がなされて行われていた。また飛行開始前に主任教官よりブリーフイングとして当日課目の内容、注意すべき事項等についての指導がなされ、さらに担当教官と訓練生との間で、より詳細な打合せが行なわれたうえ訓練飛行が実施されていた。被告人隈は教官としての指導能力に劣るところはなく、同派遣隊における教官としての訓練業務を順調に遂行していたものである。

第二本件事故の発生とその状況

<証拠略>を総合すれば、以下の事実を認定することができる。

昭和四六年七月三〇日午後二時二分過ぎころ、岩手県岩手郡雫石町付近の高度約二八、〇〇〇フィート(約八、五一〇メートル)上空において、別紙被害者一覧表記載の乗客一五五名及び乗組員七名が搭乗した千歳飛行場発東京国際空港行全日空第五八便ボーイング式727―200型ジェット旅客機と、宮城県桃生郡矢本町所在の航空自衛隊松島飛行場を離陸し、被告人隈の操縦するF―86F―40型ジェット戦闘機(教官機)に追従して編隊飛行訓練をしていた被告人市川操縦の同型戦闘機(訓練機)が接触し、本件事故が発生した。

接触当時、全日空機は、真対気速度約四八七ノット(マッハ約0.79、時速約902キロメートル)で、水平直線飛行状態にあり、訓練機は真対気速度約四四五ノット(マッハ約0.72、時速約824キロメートル)で、バンク角四五ないし六〇度、降下率毎分五〇〇フィートによる旋回飛行状態にあり、両機の飛行経路のなす角は五ないし七度であつた。

右両機は、最初に、訓練機の右主翼フラップステーション二五付近後縁と全日空機の左水平尾翼安定板ステーション二〇〇付近前縁とが接触した。この接触により訓練機の右主脚取付部付近の剛構造によつて、全日空機の左水平尾翼安定板ステーション一〇〇から一八〇の前桁、後桁、昇降舵等が順次破壊され、同時に訓練機の右主翼も右接触部分が破壊するとともに、その過程で訓練機は全日空機の左水平尾翼後桁の強部材を支点として機首を右に振り、機首部が全日空機の垂直尾翼上部安定板ステーション二三〇付近の左側面と接触し、両機の右接触部付近の各構造が破壊され、且つ全日空機の垂直尾翼にねじれが生じた。

全日空機は、右接触により左水平尾翼、垂直尾翼上部が順次破壊されたことにより、その直後右水平尾翼も破壊分離した。そして、左右の水平尾翼を失うことにより操縦不能となり、同時に水平尾翼による機体の機首上げ力を失い、次第に機首を下げて降下して行つた。垂直尾翼は、前記損壊及びその胴体取付部の破損のため、その機能を発揮できず、機体を機首方位に対し左に横すべりさせて降下し、短時間内に垂直尾翼も機体から分離した。そして、降下角がより増大するに従い、その主翼に下向きの大きな空気力を受け、その反力として胴体に大きな上曲げの慣性力を生じ、接触後約二五秒までにはこれらの力が機体の強度限界に達し、主翼は下曲げの方向に、胴体は上曲げの方向に破壊して、空中分解を生じ、墜落した。同機の前記搭乗者一六二名は全員死亡した。

訓練機は、前記接触により右主翼及び機首底部を破壊され、且つ右主翼が分離するとともに、右に二回横転し、錐もみの前兆を経て背面錐もみ状態となり落下した。訓練機を操縦していた被告人市川は、接触による衝撃を感じた後、機体の横転を正そうと操縦桿を操作したが、操縦不能の状態にあつて操作をあきらめ、機体が錐もみ状態に入つて墜落中、緊急脱出の射出レバーを引こうとしたが、反引力が大きく手が届かなかつた。しかし、風防が離脱しているのに気がついたので、安全ベルトをはずすと、身体が自然に機外に放出された。そして、落下傘を開傘させ、雫石町第一四地割字下長根三五番地の水田(別紙第二の図面⑤地点)に降下した。

全日空機の残がいは、別紙第二の図面⑥地点に垂直尾翼フィツティングの一部、⑦地点に上部方向舵作動器、同サーボ機器、⑨地点に左水平安定の先端部、⑪地点に上部方向舵の一部、⑫地点に左水平安定板後縁材の一部、⑬地点に左昇降舵バランスウエイトの一部、⑯地点に垂直尾翼の一部、⑰地点に上部方向舵作動器の取付枠の一部、⑱地点に上部方向舵の一部、⑲地点に左水平尾翼の一部、⑳地点に上部方向舵の一部、地点に垂直尾翼の一部、地点に上部方向舵の一部、地点に左昇降舵の一部、地点に垂直尾翼の大部分、地点に胴体前部、地点に右水平尾翼、地点に胴体後部外板の一部、地点に第一発動機、地点に第二発動機、地点に第三発動機、地点に胴体後部、地点に左主翼前縁スラットの一部、地点に垂直尾翼の一部、地点に第一発動機カウリングの一部、地点に胴体中央部、主翼中央部、第一発動機カウリングの一部が、それぞれ落下、散在した。

訓練機の残がいは、別紙第二の図面①地点に右主脚、②地点に胴体、左主翼、尾翼、発動機等の右主翼を除く大部分、③地点に風防、④地点に前脚、⑧地点に右主翼、⑩地点に右主翼内側前縁スラットの一部、⑭地点に機首の消炎板、⑮地点に右主翼付根外板の一部、地点に機首右側外板の一部、地点に着陸灯の一部、地点に機首のラジオ隔壁の一部が、それぞれ落下、散在した。

以上両機の残がい散布の範囲は、東西約六キロメートル、南北約六キロメートルに及んだ。

教官機を操縦していた被告人隈は、全日空機の下を通過した後、機体の一部を失つたようにして錐もみ状態で墜落していく訓練機を目撃するとともに、主翼付け根付近から白煙様のものを吹きながら約二〇度の降下姿勢で落下していく全日空機を認め、午後二時二分四八秒、松島飛行場管制所に緊急通信を開始して両機の接触を報告し、その後遭難状況の報告などのため墜落現場付近上空を旋回していたが、同二時四七分帰投命令を受け、前記松島飛行場に帰着した。

第三本件接触事故に至るまでの各航空機の飛行経過、航跡及び接触地点

一全日空機

1函館NDB上空までの飛行経過

<証拠略>によると、以下の事実を認定することができる。

全日空機は、昭和四六年七月三〇日、本件事故に遭遇するに先立ち、東京国際空港から千歳飛行場へ全日空五七便機として飛行し、右飛行における東京国際空港の離陸予定時刻は午前一〇時五〇分であつたが、操縦席窓の防氷装置の機能点検(点検の結果異常はなかつた)等のため、予定より遅れて午前一一時二九分同空港を離陸し、更に航空交通管制上の事由により遅延して同日午後零時四四分に千歳飛行場に着陸した。

次いで、同機は、予定に従い全日空五八便として千歳飛行場から東京国際空港に向けて飛行することとなり、右飛行につき運輸省千歳空港事務所に提出して管制承認を受けた飛行計画書(フライト・プラン)によると、同日午後一時一五分に出発予定、計器飛行方式による飛行方法により、巡航速度は四九〇ノット、巡航高度は二八、〇〇〇フィート(約八、五一〇メートル)、予定経路はジェットルートJ10L、函館NDB、ジェットルートJ11L、松島NDB、ジェットルートJ30L、大子NDB、ジェットルートJ25L、佐倉NDB及び木更津NDB経由東京国際空港到着、到着予定時刻は同日午後二時三五分というものであつた。ところが、同機が五七便として到着した時刻が前記のように既に遅延していたこと、及び千歳飛行場より出発する先行便との間の管制間隔保持の必要等の事由により、右出発予定時刻より遅れて、同日午後一時二五分同飛行場駐機場から地上滑走を開始(ランプアウト)し、同一時三三分同飛行場一八L滑走路を離陸した。

同飛行場を離陸した全日空機は、千歳ターミナル管制所のレーダー管制を受けて同一時四一分函館NDB(無指向性無線標識施設)の北東二八マイル(約五二キロメートル)、高度約一七、〇〇〇フィート(約五、一七〇メートル)の位置まで飛行し、同管制所から以後は札幌管制区管制所に周波数135.9メガヘルツで連絡するよう指示された。

その後、同機は、同一時四六分函館NDB上空を高度二二、〇〇〇フィート(約六、六九〇メートル)で通過し、同上空でその位置通報を行うとともに、次の位置通報点である松島NDB上空を同二時一一分に通過する予定である旨の通報をした。

2函館NDB上空通過後接触地点までの航跡

<証拠>によると、全日空機は、函館NDBを通過した後、同一時五〇分に、高度二八、〇〇〇フィート(約八、五一〇メートル)に到達した旨札幌管制区管制所に通報を行つた。

その後、同機は、訓練機と接触するに至るまで、フライト・データ・レコーダの記録値によると、指示対気速度は二五四ノットから漸次増加し、離陸後二四分に約三一〇ノットに達し、以後三一〇ノットないし三一八ノットで推移(真対気速度約四八七ノット((マッハ約0.79、時速約902キロメートル)))し、機首磁方位は一八九度ないし一九〇度、垂直加速度はほぼ一Gで、水平定常飛行を続けていたことが認められる。

ところで、全日空機の函館NDB上空通過後における航跡(以下単に全日空機の航跡という場合はこの部分の航跡を指す。)自体を独自に立証する手段としては、フライト・データ・レコーダ記録の解析による方法(本件における全日空機のフライト・データ・レコーダ記録解析における問題点については後述する)以外には、十分なものは見出し難い。しかし、当然のことながら、全日空機の航跡の最終地点に本件接触地点が位置しており(全日空機は後述のとおり航跡に現われる回避操作はとつていない)、且つそれまで同機はほぼ水平直線飛行を継続していたものと認められるのであるから、その航跡を考察するにあたつて、先ず、本件における接触地点が何処であるかについて以下に検討することとする。

(一) 接触地点の認定について

(1) 検察官主張の接触地点及びその論拠

検察官は、下記イ乃至ホ掲記の理由により、接触地点は、国鉄田沢湖線雫石駅の西方0.4キロメートルから北へ3.3キロメートルの地点(北緯39度43分、東経140度58.4分)を中心とする東西1キロメートル、南北1.5キロメートルの長円内の上空、高度二八、〇〇〇フィート(約八、五〇〇メートル)でその中心点はジェットルートJ11Lの中心線から西方約四キロメートルの位置(別紙第二の図面参照)である旨主張する。

イ 事故調査報告書によれば「接触位置は接触時に分離したためその初期条件の設定が比較的容易であり、しかもその形状等からして落下中に不規則な運動をすることが少なく、比較的正確に軌跡計算の行える全日空機の垂直尾翼の構造部分の一部である上部方向舵のサーボ機器により軌跡計算を行い、かつその他の左水平安定板等三破片により参考的軌跡計算をしてその接触位置を推定した。」とされていて、右推定は十分な科学的裏付けを有しており、しかも右軌跡計算を担当した事故調査委員荒木浩は「軌跡計算をする場合初期条件と対象物件の選択が問題なので、接触と同時若しくはその直後に分離したと推定され、かつその形状等から比較的正確に軌跡計算のできる器材を選んで計算したが、なお若干の誤差は免れないので、その接触位置を南北に長い長円の範囲内とした。」と証言していることに照らしても、その正確性は高度のものということができる。

ロ 同じく事故調査報告書によると、全日空機のフライト・データ・レコーダの垂直加速度が瞬間的に1.1Gを示した時点が接触時であるとみられるところ、右フライト・データ・レコーダの記録値を解析して得た航跡から推定される空中接触位置と、前記軌跡計算による推定接触位置とは、一マイル少ししか離れておらず、このことからしても、右推定接触位置の正確性を裏付けることができる。

ハ 防衛庁航空幕僚監部が独自の立場で事故原因調査をした推定接触位置も、事故調査報告書の前記位置と近似している。

ニ 本件事故を駒ケ岳の焼砂で目撃した<証拠>によると、全日空機は岩手山付近上空から雫石町市街地上空に向つて南進し、その中間の駒木野部落付近上空において、北進中旋回した市川機と接触したものと認みられ、右位置は検察官主張の接触位置と近似している。また、検察官主張の接触位置の中心点から約1.6キロメートル北北西に位置する西山中学校校庭において本件事故状況を目撃した<証拠>も、検察官主張の右接触位置と矛盾するものではない。

ホ 被告人隈は、検察官に対し「事故発生の時点では既に飛行制限空域(第一航空団松島派遣隊は、その飛行訓練準則において、ジェットルートJ11Lの中心線の両側五マイル内の高度二五、〇〇〇フィートから三一、〇〇〇フィートまでの空域その他を飛行制限空域として指定し、同空域内での飛行訓練((航法・SFO・計器出発、進入を除く))は、やむを得ない場合を除き実施しないことと規定していた。)内に入つていたのではないかと思う。」と供述し、また、事故当日松島派遣隊長あて本件状況を報告した供述書には「事故場所は盛岡の西方五マイル」と記載されており、接触直後に松島飛行場管制所と交信した際の記録にも、松島タワーからの「盛岡の一〇マイルウエストでホールデング、事故機はやはりその辺で事故に遭遇したのでしようか。」との質問に対し「そうです。」と交信している。そして、公判廷においても右交信内容を指摘されて、結局接触地点が右飛行制限空域内であることを認めるに至つている。

(2) 検察官の右主張に対する考察

検察官は、その主張の接触地点の主たる根拠として、事故調査報告書の調査結果を援用する。

ところで、調査委員会による航空機事故の調査は、当該事故の発生状況およびその原因等を調査探究し、それによつて事故に至つた要因を除去し、且つ事故の再発を将来にわたつて防止することを目的としてなされる(証人山県昌夫の供述にあるICAO=国際民間航空条約=のマニアルによる。)ものであり、右の目的を達成するため、現時の科学技術の水準上可能な限りの手法を尽して、諸点を推認して行く方法がとられる。そして、例えば、推認の基礎としての数値等も、必ずしも現実のそれではなく、推定値ないしは平均値等が使用され、且つこれに一般的法則を適用することによつて、可能性のある事実を推定し、且つ場合によつてはかかる推定の積み重ねの上に、合理的とされる一定の結論が導き出されるものである。もつとも、このことは事故調査の方法としては何ら批難される筋合のものではなく、むしろ事故調査の前記目的に照らして、当然必要とされる性質のものである。

しかしながら、刑事裁判における事実の証明は、右事故調査におけるそれと同一のものではない。即ち、刑事裁判においては、あくまで当該個人に対する刑事上の責任の有無を決することを目的とし、その証明の程度は、それが単に合理的な推認であることをもつて足るものではなく、合理的な疑いを容れる余地のない程度に事実が証明されることを必要とするものであることはいうまでもない。即ち、科学技術上の証明と、刑事裁判上の証明は、自ずからその目的、性質を異にする(このことは事故調査における事実の推定が常に刑事裁判上使用し得ないことを意味するものではなく、前者が後者の要件を満たすと認められる限り、これを刑事裁判における認定事実として使用し得ることは当然である。)ものというべく、以下に述べるところも、そのような見地から、検察官の前記主張が、刑事裁判上要求される証明の程度を満たすものであるかどうかを検討するものであつて、検察官の援用する事故調査の当否自体を考察の対象とするものではなく、また、そのようなことは当裁判所に課せられた任務でもない。

なお、弁護人は右のような事故調査の性質からして、その報告書は刑事裁判においては証拠能力を有しない旨主張するが、右は要するに証明力の問題であつて、現行の刑事訴訟法規上、本件事故調査報告書の証拠能力を否否定すべき理由は見出せない。

そこで、以下検察官主張の接触地点について、各項目ごとにその当否を検討することとする。

イ 目撃者の供述について

事故当日、駒ケ岳の焼砂から接触事故を目撃した前記数名の者の供述は、検察官主張の接触位置と矛盾しない。

なお、弁護人が反証として提出する海法鑑定書は、後述する如く、本件接触地点は別紙第二の図面Eの範囲内であるとするが、接触地点が右Eの範囲内の西寄り部分であるとすれば、右目撃者らの目撃した各機体の大きさ等目撃状況に関する供述からしても疑問であるが、そうでなければ、右各供述は右鑑定とも直接矛盾するところはない。

ところで、右目撃者中大和田克紀は、検察官に対し、南進機は「雫石町の市街地の上空か、あるいは少し市街地より東の方へはずれる様な感じの方向に飛んでいるように見えた。」と、橋本裕臣は、検察官に対し、南進機は「岩手山の頂上の東側の方を飛んで来たようであつた。」と各供述している。しかし、同所からの目撃者八名中他に右と同趣旨の供述をしている者はなく、且つ、右橋本の供述の如く、全日空機が岩手山上空の東側を飛行していたのであれば、検察官主張の接触位置とも矛盾することとなるうえ、一般論としても、山上から二八、〇〇〇フィートの上空を飛行する航空機を目撃した者が、その方位、進行方向等は別として、当該航空機がどの地点の上空に位置しているかを正確に認識し得るものであるかは、極めて疑問である。

次に、岩手郡雫石町大字長山第二一地割字猿子九八の一番地所在西山中学校校庭の構堂南側の技術室東側から本件接触事故を目撃した中川幸夫は、検察官に対し「この飛行機が講堂南側の真中のとがつた付近に来たと思われるころ、大きさなどは判然としないが、この右側上の方からピカピカ光るものが見え、間もなく一緒になつたようになつて北から来た飛行機だけが見え、この飛行機が丁度講堂南側の技術室の真上に来たところ、白い煙のようなものがぱつと広がるように出た。」と供述しており、同調書の地図によると、右の両機が一緒になつたように見えた方向と、はじめに白い煙が出た方向との間の範囲は、別紙第二の図面Dの範囲と同じである。また、司法警察員作成の右目撃状況の捜査報告書によると、目撃位置は、前記中学校校庭の西側、衝突を目撃した方向は、北を基点に三一二度の北々西の上空で、仰角五五度の方向であると認められる。

そして、前述のように、目撃者の供述中、航空機までの距離、高度、地上位置との対比等の点については、その信憑性に問題が多いとしても、少くとも、目撃方向については、一般的にも相当の信頼性を有するものと思われるうえ、同人は前記の如く中学校の講堂、技術室等の建物を通して目撃しているのであるから、その方向についての認識は、より正確性を増すものと考えられる。

してみると、同人の目撃方向は、検察官主張前記長円形の接触位置とはほぼ反対の方向(別紙第二の図面参照)となり、右長円形を含む同人の直上付近上空で事故が発生したものであるとの検察官の理由付けには、無理があるというほかない。

次ぎに、機体落下状況の目撃者の供述は、その殆どが爆発音を聞いてからの目撃者であり、従つて、全日空機の空中分解以後の落下状況の目撃となるので、接触位置の認定に直接役立つものはない。そして、これらの供述は、検察官、弁護人各主張のいずれの接触地点とも直接矛盾を生ずるものではない。しかし、右各供述中、特に岩泉徳左衛門、石塚昭、大久保咲枝、高橋サキらの供述は、機体は検察官主張の接触地点よりは南西の方向から、南東方向に向けて斜めに落下して行つた旨供述していることに留意せざるを得ない。

ロ 落下傘着地点との関係

<証拠>によると、被告人市川の落下傘は、雫石駅から南東約三〇〇メートルの水田(別紙第二の図面⑤の位置)に着地している。そして、海法鑑定書によれば、事故当時の雫石町付近上空の風向風速値(事故調査報告書添付図表第二表記載)を用い、この落下傘JBA―18の特性から降下コースを求めると、別紙第二の図面記載の点線のようになり、落下傘はこのコース上いずれかの点で開傘したものと考えられる、とされている。思うに、右鑑定書の指摘する如く、右落下傘の規格は一定しているのであるから、当該地点における高度ごとの風向、風速の資料が存在すれば、その着地点から逆算して、一定の幅を伴うとしても、開傘以後の推定降下軌跡を求めることは、いわゆる初期条件とは関係なく可能であると考えられ、右方法によつて求められた海法鑑定書の推定降下軌跡が不合理であると認定するに足る証拠は存しない。

ところで、本件の場合、被告人市川がどの時点で機体から脱出し、また、どの時点で現実に開傘したかは、必ずしも明らかではないが、前述の接触後の市川機の動き、ならびに被告人市川の供述によつて認めうる脱出時および脱出後の状況、開傘後着地までの降下態様等に照らせば、被告人市川の落下傘は、なお相当の高度を有する時点で開傘したと認めるほかはない。してみると、検察官主張の接触地点で接触した後脱出開傘して、右点線の降下軌跡上を、相当の高度を有する地点から経由して、右⑤地点に着地したと考えるのは、接触地点と降下軌跡および着地点の位置関係からみて、不合理である可能性を否定することができない。逆にいうならば、検察官主張の地点が接触地点であるとすれば、その後の市川機の動きや脱出の状況に関する諸要素が関係するとしても、当時の西風の下で、被告人市川の落下傘は、少くとも右⑤の地点よりは東側の位置に着地していた可能性が大きいのではないかとの疑念を払拭することができないのである。

ハ 全日空機の計器類の指示

事故調査報告書によると、墜落時の全日空機の第一(機長席側)CI(コース表示器)および第二(副操縦士席側)CIの各ヘディング・カーソル(方位指針)は、いずれも二〇五度を示していたことが認められる。そして海法鑑定書は「全日空機は函館NDB〜仙台VORを結ぶ線上を飛行している。これは、コース表示器の方位指針が仙台VORから大子VORへの磁方位二〇五度を指していることと符合する。」としているので、以下この点について検討する。

先ず、右二〇五度という数値に有意性を認めない考えとしては、(イ)J11Lの両端の函館及び松島の各航空保安無線施設は、いずれもNDB局(無指向性無線標識施設)であるから、VOR局(全方向式超短波無線標識施設)に向つて飛行する際に用いるヘディング・カーソルは不要であるため、機長および副操縦士ともその指針をよけておいたのが、たまたま二〇五度の数値であつたとする考え方及び、(ロ)事故時の衝撃により右ヘディング・カーソルのつまみが破損(事故調査報告書参照)したため、その度数が変化し、第一、第二各CIのヘディング・カーソルの度数がいずれも二〇五度となつたとする考え方の二つがある。しかしながら、右の考え方は、その理由は別としても、いずれも第一および第二のCIのヘディング・カーソルの度数が共に二〇五度を指していたのが、全く偶然の一致にすぎないと見てしまう点で、説得力に欠けるものがあるといわざるを得ない。勿論右両CIは他社の航空機に使用されているような連動式のものではない。

そこで、右二〇五度の数値に有意性を認める場合、即ち機長および副操縦士が、何らかの意図をもつてヘディング・カーソルを二〇五度にセットしたとした場合について以下考察する。この場合にそれがどのような効用を持つものであるかは、当該航空機の自動操縦装置のオートパイロットコントロール・モード・セレクターがいかなるモードを選択していたかに関係する。<証拠>によれば、一般的に、本件飛行のような場合にはオートパイロットのモードとしては、ヘディング・モードまたはマニュアル・モードを使用し、ナブロック・モード(VORモード)は普通は使用しないことが認められる。そして、本件全日空機の機首磁方位は、そのフライト・データ・レコーダ記録によつても一八九ないし一九〇度であつたことが認められるから、ヘディング・カーソルを有意的に二〇五度にセットしたと仮定する以上、ヘディング・モードを選択していた可能性は当然否定されなければならない。してみると、マニュアル・モードを選択していた可能性が大きいものとして残るが、同モードの場合に、ヘディング・カーソルを二〇五度にセットしておくことの効用については、次のことが考えられる。先ず第一に、あらかじめヘディング・カーソルを二〇五度にセットしたうえ、仙台VOR直上でモード・セレクターをヘディング・モードに入れる方法である。しかしながら、このようにコースの途中でモードを変更することは操縦士の間ではあまり行われていないこと、仮に変更するとしても、最初からヘディング・カーソルを二〇五度にセットせず、先ずヘディング・カーソルを現在の機首方位である一八九ないし一九〇度に一旦一致させてから、ヘディング・モードのスイッチを入れ、その後仙台VOR上空でヘディング・カーソルを二〇五度またはこれに偏流修正をした角度にセットする方法をとるのが通常であり、そうでないと航空機が急激に旋回して乗客に不快感を与える結果となること、また、たとえあらかじめ次のコースである二〇五度にセットしておくとしても、仙台VORから約九〇マイルも手前からセットすることは通常は行われていないこと等の点において、この想定にはなお疑問が残る。もつとも後の点については証人佐竹仁は「ヘディング・カーソルを早くから入れて次の旋回方向の用意をする人もいないわけではない。」との供述をしている。次に考えられるのは、マニュアル・モードのまま飛行する目的のもと、仙台VOR通過後、ターン・アンド・ピッチ・コントローラーを手動操作することによつて、機首を徐々に大子VORの方向即ち二〇五度まで、あらかじめセットしたヘディング・カーソルの二〇五度を目安にして旋回せしめたうえ、これに偏流角を加え、爾後はコース・カーソルを二〇五度として、これにコース・バーを一致させるようにして大子VORに向つて飛行する方法である。ただし、これに対しては、ヘディング・カーソルを目安として使うのであれば、最初から二〇五度ではなくこれに予想される偏流角を加えた数値にセットしておけばよいのではないか、またそのような目安をわざわざ使用するまでの必要はないのではないか、との疑問がないわけではない。

以上のとおりであるから、右計器の数値のみから本件全日空機が仙台VOR局に向かつて飛行していたものと認定するのは相当ではない。しかしながら、このことの可能性を全く否定するだけの立証もまたなされていないのである。

ニ サーボ機器による軌跡計算

空中接触位置につき、事故調査報告書は「接触によつて直接破壊分離した全日空機の尾翼構造部材の破片について落下軌跡の計算を行つて推定した。これら落下物の初期条件である初期速度の方向、大きさおよび高度については、全日空機のフライト・データ・レコーダに記録されていた値を用い、落下中の風向、風速および温度については気象庁の推定値を用いた。計算に用いた破片は、全日空機の上部方向舵のサーボ機器で、これは接触時に分離したためその初期条件の設定が比較的容易なものであり、かつその形状等からして落下中に不規則な運動を起こすことが少なく、その軌跡計算が比較的正確に行なうことができるものである。また、全日空機の左水平安定板の後縁材の一部、左昇降舵バランスウエイトの一部および上部方向舵のサーボ機器付近のフイッティングの破片についても参考のため計算を行なつて、上記結果の確認を行なつた。」としている。そして、右に説くところは、前述した目的、性質を有する事故調査における推論としては、それなりの科学的根拠と精度を有するものであると考えられる。

しかしながら、本件においては、前述したとおり、刑事事件における事実認定という観点からその当否を考察してみなければならない。

先ず、事故調査報告書に記載されている前記の左水平安定板の後縁材の一部、左昇降舵バランスウエイトの一部および上部方向舵のサーボ機器付近のフィッティングの破片については、証人荒木浩は「これらの物は形がよくないので、これ以上は飛ばないという意味で参考のため行つたものである。」と述べていることからしても、極く参考的に使用されたもので、右接触位置推定のための軌跡計算に直接用いられたのは、前記サーボ機器であると認められる。

そして、かかる落下物による軌跡計算については、その落下物の分離時期及びこれによつてきまる初期条件が重要な要素の一つであることは、右報告書の指摘を待つまでもないところであるが、右サーボ機器の機体からの分離時期について、同証人は「接触の時の相対速度がそんなに速くないので、ぶつかつている間にいろいろなことが起つているので、その時間というものはよくわからない。」「しかし標準的にみて四、五秒であろう。」と供述し、四、五秒とした理由は何か、科学的根拠があるのか、との質問に対しては、「特にない。」と答えている。一方、初期条件の数値については、同証人は「フライト・データ・レコーダ記録の〇秒から四秒の間の平均付近をとつた。」と供述している。

ところで、右サーボ機器は、本件全日空機の垂直尾翼の内部桁材にボルトで固定されているものである。そして、本件接触の状況は、前記認定の如く、訓練機の右主翼付根付近と全日空機の左水平安定板先端部付近が最初に接触し、次いで、訓練機が機首を右に振つて、その機首底部が全日空機垂直尾翼上部安平板左側面部と接触し、両機の接触部分の構造が破壊されるに至つたものである。してみると、前記部分に位置するサーボ機器は、右の第二次接触により当該部分が破壊された際に、これに伴つて影響を受けたものであることは明らかである。その際、右サーボ機器が、周辺部分の軟構造のため、それ程遅くない時期に分離したものであることは一応推測し得るところであるとしても、前記の如く垂直尾翼中に内蔵され、桁材に固定されているものであること等に鑑みれば、前記第二次接触における方向と強さを有する外力が右垂直尾翼に作用したとして、これと同時ないしはその直後に、右サーボ機器も機体から分離放出されたものであるかについては疑問の余地なしとせず、これを確定するに足る論拠は見出し難い。

以上のことからすれば、右分離時期につき事故調査報告書にいう「接触時」あるいは荒木証言のいう「接触後四、五秒」の時点に、右サーボ機器が現実に分離落下したものであるかは、なお疑問というほかない。しかも、全日空機の接触後のフライト・データ・レコーダの各記録値は、時間の経過とともに大きな変化を示していることが認められるのであるから、右落下時期の差異は初期条件設定の当否に少くない影響を及ぼすものと考えねばならない。そうすると、初期速度の方向、大きさ及び高度のいわゆる初期条件の如何がその推定結果に大きな影響を及ぼすと考えられるこの種の軌跡計算において、前記の如く初期条件として、全日空機の接触後〇秒から四秒までの速度、方向及び高度の平均値をそのまま使用してなされた右軌跡計算が、厳密にいつてどの程度の正確性を有するものであるかについては、未だ十分な立証がなされなかつたことに帰する。

ホ フライト・データ・レコーダ記録の解析による推定接触位置

検察官は、その主張の接触位置は、全日空機のフライト・データ・レコーダの記録値を解析して得た航跡から推定される空中接触位置とほぼ合致することからしても、信頼性の高いものである旨主張する。

<証拠>によれば、検察官主張の接触位置は、北緯三九度四三分、東経140度58.4分を中心とする東西1キロメートル、南北1.5キロメートルの長円上空内であり、右フライト・データ・レコーダ解析による推定接触位置は、右長円の中心点から東に約1.5キロメートル、北に約1.3キロメートル(直線距離にして約二キロメートル)の北緯約三九度四四分、東経約一四〇度五九分の位置であつて、両者はそれ程大きく離れた位置にはない事実を認定することができる。

ところで、右フライト・データ・レコーダ記録の解析は、接触地点のみならず、全日空機の航跡自体を独自に証明すべき重要な資料であつて、慎重な検討を要するところであるから、その問題点については、後に項を改めて考察することとする。

ヘ 防衛庁の事故調査による推定接触位置

検察官主張の如く、防衛庁防衛局運用課長作成の、F―86F空中接触事故調査についてと題する書面に記載された図面によると、その接触推定位置は、検察官がその主張の主たる根拠としている事故調査報告書のそれと近似している。しかしながら、右防衛庁の調査は、如何なる資料を基礎とし、また如何なる方法で接触位置を判定したのかが明らかでないので、直ちにその正確性を判断することができない。

そして、証人山県昌夫は、事故調査委員会では調査の途中に防衛庁での調査担当者から調査の概要を聴取した旨供述し、証人井戸剛もまた、事故調査委員会が調査の中間に懇談会形式で防衛庁の調査結果を聞き、防衛庁の落下軌跡の計算上初期条件について両者でやりとりがあつた結果、防衛庁の方で計算過程に誤りがあつた旨了解したので、接触地点はほぼ同じになつた旨の供述をしている。そうだとすると、両者の接触位置が結果として一致するのはむしろ当然であつて、このことの故に特に信憑度を増すものとまではいいえない。

ト 被告人隈の供述と接触位置

検察官は、前記の如く、被告人隈の各種供述から、本件接触位置がJ11Lの前記制限空域内であることが明らかである旨主張するので、以下この点につき検討する。

被告人は、検察官に対し、その昭和四六年八月四日付供述調書では「降下した時地形を見て雫石川の上流付近で流れをはさんで北と南から山がせまつている場所付近が二番機と727機の墜落地点であることが判つた。」「破片の落ちて行つた地点から考えると二番機と旅客機が接触した位置は、航空路の内側だつたかもしれないが、航空路の内側か外側か私には判らない。」と、同月一五日付調書(七枚綴りのもの)では「事故発生後高度を下げて地形を見た時の状況から判断すると、事故発生時点ではすでに制限空域内に入つていたのではないかと思われる。そうだとするとすればその時に機の後方が見えない態勢で飛行していたことに一番の原因があると思う。」と、同月一六日付調書では「私は事故前旋回し約九〇度旋回した段階で制限空域の西端ぎりぎりの線に達すると思つていたが、結果的には、制限空域内に入つてしまつたと思われるので目測に誤差があつたのだと思われる。」と各供述している。右各供述を総合して判断すれば、被告人隈としては、民間旅客機と本件接触事故を発生せしめる結果になつたため、右各供述時には、自機が制限空域内に入つたのではないかと考えていたが、真実その確信はなく、接触地点が制限空域(右八月四日付調書にいう航空路)内であつたか、またはその外側であつたかについては明確な判断がつかなかつたものと認められる。

次に、被告人隈は松島派遣隊長宛に報告した同年七月三〇日付供述書の「場所」欄に「盛岡西方約五マイル、三六〇度、七六NM・FROM・JNT」と記載している。そして右記載につき公判廷で同被告人は「これは高度を落して行くとき、破片が落ちて行く場所が丁度そのあたりであつたので、その地点を帰隊後航空図で計つて書いた。」「次の捜索のことを考え、そのために落ちた証拠のある所を知らせるのが自分の役目であると考えた。」と供述しており、被告人隈が、事故を発生せしめた直後帰隊して右報告書を作成するに際し、右のような意図で記載したというのもあながち不合理なことであるとは思われない。

また、被告人隈は、事故直後付近上空を旋回中、松島タワーからの「盛岡一〇マイル・ウェストでホールディング、事故機はやはりその辺で事故に遭遇したのでしようか。」との発信に対し「そうです高度は二七、〇〇〇ぐらい、二七、〇〇〇か八、〇〇〇位です。」と応答している。この点につき公判廷では「今飛んでいる所が大体一〇マイル位の所で、普段も一〇マイル単位で位置をとらえるのが普通であり、衝突した場所もそれ程、即ち二〇マイルや三〇マイルも離れている所ではないから、『そのあたりです』と言つた。」と供述しており、また同被告人は右交信に先立つて「盛岡の西の一〇マイルの山中あたりがライラックチャーリー、え……それから盛岡の南の方にポジションはよく分りませんでしたが727だと思いますが、落ちました。」と発信している事実が認められる。右の事実を総合すると、同被告人は、右交信の時点では市川機の落下して行つたと思われる位置の上空で旋回しつつ、特に衝突位置と落下位置とを意識して区別せず、且つ、大体の距離関係を知らせるべく交信していたものと認められ、厳密な衝突位置を報告したものとまでは認定することができない。

次に、公判廷で被告人隈は「横手の市街地の方から北上し、岩手山を一二時三〇分、盛岡を三時の方向に見て右旋回を開始し、岩手山より北側に出ることなく旋回をし、直線飛行の後、左旋回を開始する時点では盛岡から二〇マイルの距離にあると考え、それから九〇度の左旋回を終了すればJ11Lを直角に横切れると判断し、約三〇度まで左旋回したあたりで本件事故が起きた。」「事故の時点にJ11Lの制限空域内に入つていたかどうかは判らない。」と供述している。ところで、一方同被告人は公判廷において「J11Lは大体盛岡付近を通つていると思つていた。」と供述している。

そうすると、同被告人が事故当時想定していたJ11Lの制限空域西端線は、盛岡から西側五マイル付近を通つていたことになるのであつて、被告人隈が右供述の如く左旋回を開始する時に盛岡まで二〇マイルあつたのであれば、その際の同被告人の認識としては、右制限空域西端まであと一五マイル近くもあつたことになつて、左旋回終了時に丁度直角に制限空域に入るという同被告人の予定とも合致しなくなり、且つこれに先立つ前記認定の飛行経路との位置関係から判断しても、同被告人の左旋回開始時の位置に関する右供述(盛岡から二〇マイルあつたという点)は、到底これを措信することができない。むしろ、同被告人がJ11Lが盛岡上空付近を通つているという誤つた認識を持つていたのであれば、そのため、右飛行訓練中市川機を伴い既に現実の制限空域内に侵入してしまつていたのではないかと推測しうる可能性も大である。しかし、だからといつて、これを理由に、事故発生の時点において、被告人両機が制限空域内にあつたと断定することもまた困難である。

以上述べた如く、結局、被告人隈の右各供述のみをもつてしては、検察官主張の如く、本件接触位置がJ11Lに関する制限空域内であるとの結論を導き出すことは、未だ可能であるとはいい難い。

チ カラー・データ・フィルムの解析による推定接触位置

海法鑑定は、主としてカラー・データ・フィルムの解析を基礎として、全日空機の航跡及び接触位置を推定しており、その要旨は以下のとおりである。

即ち、事故当時三沢基地で得られたカラー・データ・フィルムの接写フィルムのうち航跡解折に有用な二八コマを二五〇万分の一の地図に対応できるように拡大して焼付け、更にこの写真をもとにして、一〇〇万分の一の地図に対応できるように拡大して航空図面を作成し、これを各航空機の位置通報と各航跡プロットとの相関により、一〇〇万分の一の地図上に位置させた。そのうち全日空機のフライトレコーダ記録解析表の機首磁方位と一致するものを全日空機の航跡とした。右全日空機の一三時五九分九秒以降接触地点に至る航跡は得られなかつたが、前記航跡にみられる飛行状況及びフライト・データ・レコーダの記録からみても、函館NDB―仙台VORを結ぶ線上を飛行していたと考えるのが妥当である。これは同機が自動操縦装置により水平定常飛行をしていたこと及びコース表示器の方位指針が仙台VORから大子VORへの磁方位である二〇五度を指していたことと符合する。したがつて接触位置は確率的にみて別紙第二の図面の範囲〔A〕内で起つたものと推定される。なお、地上目撃者の証言からは、接触の起つた地点は同図の範囲〔C〕及び範囲〔D〕の交差範囲内となる。その他接触後の全日空機の降下方向、残がいの分布状況、落下傘着地点等のことも総合すれば、接触地点は同図〔E〕内となる、というのである。

ところで、<証拠>によれば、カラー・データ・フィルムとは、識別不能機を発見し、味方機をこれに向つて誘導すること等を目的とするバッヂシステム(自動警戒管制組織)と呼ばれる機構の過程で得られるもので、航空自衛隊の各基地のレーダーサイトで把握した航空機のデータを三沢基地に集めてコンピューターで総合処理し、その結果をブラウン管上に表示して、これを一分間隔で撮影したフィルムであることが認められる。

そして、バッヂシステムの機構自体は、右の目的、性質等に照らしても、その精度は高いものでなければならないと考えられる。しかしながら、バッヂシステム機構の各過程における精度は極めて高度のものであるとしても、証人井戸剛の供述によつても窺える如く、カラー・データ・フィルムの被写体となるブラウン管上の映像は、各情報を最終的に総合処理し指揮官が総括的な所見を把握することを目的としたところのものであり、カラー・データ・フィルムは更にこれをフィルムに写しとつたものであるから、それが数多くの航空機の厳密な位置や航跡を、正確に地図上に再現するような目的に適する程の精度を有するものであるかについては、疑問の残るところと認められる。

また、海法鑑定人の右ブラウン管上の表示の再現方法は、同人独自の手法であり、要するに右フィルムを拡大して必要な航空機の相対位置をプロットして行き、且つ当時在空した他の航空機の位置通報等の情報が最も合致するようにしつつ地図上に位置させようとするものである。そして、このような方法によれば、ある程度の誤差は免れないにしても、特定の航空機の航跡を地図上に表示することは可能であると考えられる。ところで海法証言によれば、右の誤差はプラス・マイナス二マイルであり、この二マイルは、レーダー・システム、記録装置、読み取り、表示方法および記録方法の全部を含めての誤差であるとのことであるが、その具体的根拠については、同証言を仔細に検討してみても、なお明確であるとはいい難い。従つて、同鑑定人が右カラー・データ・フィルムの解析から直接得た一三時五九分九秒までの全日空機の航跡の正確性は、この点からしてもこれを確定することができない。そうだとすると、これを前提として得た同鑑定人のその後の同機の航跡についても、直ちにこれを採用することはできない。

(二) フライト・データ・レコーダ記録の解析による航跡の推定について。

<証拠>によれば、全日空機のフライト・データ・レコーダの記録値を解析して得た航跡は、函館通過後ほぼJ11Lにそつて、高度二八、〇〇〇フィート(約八、五〇〇メートル)、真対気速度四八七ノット(マッハ約0.79、時速約902キロメートル)、機首方位一八九度ないし一九〇度で、自動操縦装置により水平定常飛行を続行していたものとされており、また離陸後約三〇分に同記録の垂直加速度が瞬間的に1.1Gを示した時点が接触時点を示すものであると推定されるが、この接触時の位置は、北緯約三九度四四分、東経約一四〇度五九分で、前記サーボ機器の軌跡計算による接触推定位置とほぼ合致(前記長円の中心から北東約二キロメートル)する、とされている。

そして、フライト・データ・レコーダ記録の解析に直接従事したのは、日本航空技術課に所属し、同種作業に長年の経験を有する喜多規之であり、同人の証言によると右フライト・データ・レコーダの記録装置、記録状態等に解析に影響を及ぼすような異常はなかつたものと認められ、これに反して海法鑑定書および同証言は、右フライト・データ・レコーダの垂直加速度記録に異常があつたとしているが、その根拠としてあげられている同記録の写真の正確性に疑問がある(証人喜多規之の供述参照)ので、これを採用することはできない。また、前記喜多規之による全日空機のフライト・データ・レコーダの記録値の読み取り自体は、慎重かつ精密になされたものと認定するに十分である。

しかしながら、右喜多規之の証言によつても、右読み取り値を地図上に位置せしめるためには、各地点の風向、風速、気温が重大な要素となることが明らかであるところ、本件において、この点につきどのような資料が用いられたのかは、必ずしも明白ではない。

即ち、証人後藤安二は、その期日外尋問においては「雫石上空付近のデータを基礎とし、他の地点は当日の天気図から推測した。気象データを分析したのに誰かわからないが専門家である。」と供述したが、公判廷における証言では「天気図のほか札幌の気象記録もとつたはずである。それから風向、風速、温度の一連を出させた。それは喜多に出させて自分がそれを承認した。前に専門家と言つたのは喜多のことである。」と供述している。ところが、一方喜多証人は「風や温度の資料は後藤委員から受け取つた。『一か所だけでなく四か所か五か所位の気象データを基にして総合的に出してあるから、この点は心配する必要はない。これを使つて計算すればよい。』と指示された。」「与えられた気象データは一つであり、何か所かのデータをまとめて一つにしたものと思う。何か所であるかは自分にはわからない。」「全日空機が高度二八、〇〇〇フィートになつてからあとの数値は一つであつた。」と供述していて、この点についての両者の供述は著しくそごしている。ただ記憶その他の点からすれば右喜多証言が比較的正確なのではないかと考えられる。

そうすると、少くとも全日空機が高度二八、〇〇〇フィートに達した時点(同日午後一時五〇分)以後については、全く同一の風向、風速、温度の資料を使用して解析していることとなる。そしてそのような方法であつてもなおこれによつて得た航跡の正確性が、十分担保し得るものであるとの証明は存しない。従つて、結局右フライト・データ・レコーダ記録の解析による航跡及びこれを基にした接触位置の推定は、直ちにこれを正確なものとして採用するわけにはいかない。

(三) 本件証拠上認定可能な接触位置及び全日空機の航跡

以上詳述したように、本件各証拠中には、検察官主張の接触地点及び航跡に副う証拠もかなり存在し、一概にこれを排斥することは相当でない。しかしながら、これらの証拠に対しては、それぞれ既に指摘したとおりの各問題点及び反証が残らざるを得ないところであつて、航跡及び接触地点は、その程度は別としても、弁護人主張の如くあるいはこれより西側に寄つていたのではないかとの疑問を完全に払拭することはできない。従つて、結局検察官主張の接触地点については、その証明が十分ではないこととなるのであるが、本件においては、たとえ弁護人の右主張に副う前記各反証が容れられたとしても、その接触地点は、別紙第二の図面の範囲〔E〕より西に出るものではない。しかも、前述したように、焼砂からの目撃状況からしても、少くとも右〔E〕の西端部付近ではないということができる。しかし、厳密に検察官主張の接触地点と右〔E〕の西端部付近を除く範囲内におけるいずれの地点が接触地点であり、これに至る航跡がどこに位置していたかは、本件全証拠によるもこれを確定することができず、且つ強いてこれを推論しようとするのは証拠裁判主義の原則にも悖り、相当でないといわねばならない。

してみると、全日空機の函館NDS上空を通過後の航跡については、罪となるべき事実において判示したとおり、同所から松島NDBに向うジェットルートJ11Lを、その管制上の保護空域内西側において南下進行していたこと、接触地点については、雫石町付近上空の、右に記載の範囲内であることの各事実を認定するに止めるのが、本件事案の全証拠に照らして相当であり、且つ右の程度の認定でもつて、罪となるべき事実の認定として欠け、あるいは被告人らの刑責を判断するうえで不十分なところがあるとは解せられない。

二自衛隊機

1当日の訓練経過

(一) 「盛岡」訓練空域設定の経緯

<証拠>によれば、以下の事実を認定することができる。

松島派遣隊では、同派遣隊の所属する第一航空団の飛行訓練規則に基づき、松島派遣隊飛行訓練準則を制定し、同派遣隊発足後間もなくの昭和四六年七月一〇日から施行した。右飛行訓練準則一五条一項は「飛行訓練は原則として、訓練空域(別紙第一および第二)において実施するものとする。」と規定し、右規定に基づき、松島飛行場の局地飛行空域(同準則別紙第一)内に、「横手」「月山」「米沢」「気仙沼」「相馬」とそれぞれ呼称する五つの細分化された局地飛行訓練空域(同別紙第二、以下単に訓練空域という)を設定し、同派遣隊に配属された被告人市川を含む六名の戦闘機操縦課程訓練生に対する飛行訓練及び同月二四日同派遣隊に配属された五名の戦闘機戦技課程訓練生に対する飛行訓練につき、要撃戦闘訓練、航法訓練、計器飛行訓練等の特殊な飛行訓練を除き、各飛行ごとに、その際の主たる訓練課目を実施する空域として、右いずれかの細分化された訓練空域を指定して訓練を実施するのを原則としていた。

ところで、本件当日における戦闘機操縦課程訓練生に対する飛行訓練は、当初「横手」「月山」「米沢」「相馬」の四つの訓練空域を午前中二回、午後に一回それぞれ使用し、右各空域に教官機及び訓練機各一機で構成する二機編隊を各一編隊づつ割り当て、前記六名の訓練生に対し二度づつ実施する予定であつた。ところが、同日午前八時前ころ、当日の訓練空域を割り当てる任務にあつた訓練幹部の土橋国宏飛行班長補佐が、当時同派遣隊とともに松島飛行場を使用し、前記細分化された五つの訓練空域をも共用していた第四航空団第七飛行隊の担当者と打合せたところ、同派遣隊で予定していた前記四つの訓練空域のうち「相馬」訓練空域を右第四航空団が使用する計画であることが判明し、従前の両隊の訓練空域使用についての申し合せによつて同訓練空域を同派遣隊において使用できなくなつたため、前記の訓練計画を遂行するには訓練空域が一箇所不足することとなつた。そこで、土橋飛行班長補佐は、臨時に訓練空域を一箇所設定することにより、当日の訓練を予定通り実施しようと考え、航空図により検討したところ、盛岡市と秋田県仙北郡所在の田沢湖との中間付近を中心とした空域に訓練空域を設定する余地があると判断し、同時刻ころ、同派遣隊内のブリーフィングルームにおいて、上司の松井滋明飛行班長に対し、訓練空域が不足するに至つた経緯を説明するとともに、同室内に掲示されていた一〇〇万分の一の航空図に向い、地図上の盛岡市と田沢湖との中間付近の位置を指で差し示しながら、臨時に同所付近空域に「盛岡」と呼称する訓練空域を新設する旨申し出て、同班長の了承を得、更に、同室で戦闘機操縦課程の訓練生及び教官らに対し同日の訓練内容についての説明や注意事項を指示していた同課程主任教官小野寺康充に対しても、前同様の事情を話し、使用する訓練空域を「米沢」「月山」「横手」のほかに「盛岡」とすること、及び「盛岡」空域の位置につき同室内の航空図を使用してほぼ前同様の方法で指で差し示しながら説明した。その後、松井飛行班長は田中益夫飛行隊長に「盛岡」訓練空域を新設した事情を報告し、同飛行隊長の承認を得た。そのころ、右臨時に新設された訓練空域が、右ブリーフイングルームの隣のオペレーションルーム内にある訓練計画を記入してあるスケジュールボードに「盛岡」として表示された。

そして、右「盛岡」訓練空域は、被告人らが使用するに先立ち、一回目に小野寺康充教官と椋本恵士訓練生との編隊に、二回目に被告人隈と藤原博美訓練生との編隊に割り当てられ、それぞれ右訓練空域を使用して訓練を実施した。

なお、右「盛岡」訓練空域の範囲については後にも考察するが、被告人両名の当公判廷における各供述及び検察官に対する各供述調書によれば、被告人隈は、右「盛岡」訓練空域は盛岡市の西側で前記横手訓練空域の北部を含みその北側空域付近を示すものと理解し、被告人市川は、右訓練空域の範囲を正確に理解しないで盛岡市を含む空域付近を示すものだろう位に考えて、飛行訓練を実施したものと認められる。

(二) 被告人両名の当日の訓練計画と本件飛行前の行動

<証拠略>によれば、以下の事実を認定することができる。

松島派遣隊では、目々訓練計画を前日に飛行班長、同補佐、主任教官らが協議のうえ決定し、夕刻ころまでにオペレーションルーム内のスケジュールボードに記載することになつていたので、本件飛行についても、前日である同年七月二九日の午後四時半ころに、翌日実施する予定の訓練計画の概要が決定され、右スケジュールボードに記載されて教官、訓練生らに伝達された。被告人両名は、七月二九日の夕刻ころ、各自右スケージュールボードを見て、翌三〇日の訓練科目が編隊飛行であり、被告人隈は、教官として午前中に藤原訓練生と、午後は一時三〇分から午後二時四〇分まで被告人市川と、それぞれ飛行する予定であり、被告人市川は、訓練生として午前中に木村恵一教官と、午後は右時間に被告人隈と、それぞれ訓練飛行を行う予定であることを知つた。なお、訓練空域、搭乗機、周波数等は、当日の気象状態や整備状況等に応じて訓練実施当日の朝に決定され、右ボードに記載されることになつていた。

被告人両名は、七月三〇日午前七時過ぎころから、ブリーフイングルームにおいて、他の教官および訓練生とともに、同日の気象情報の説明を受け、緊急手順の演練を行つた後、午前八時前ころから、同室において戦闘機操縦課程主任教官小野寺康充から、当日実施する編隊飛行訓練の実施順序、訓練内容、留意事項等について具体的な説明を受けた。右説明によると、当日の飛行訓練計画は次のとおり実施される予定であつた。被告人隈ら教官が編隊一番機(以下教官機と略称する)に、被告人市川ら戦闘機操縦課程訓練生が同二番機(四機編隊の場合の三番機の位置、以下訓練機と略称する。)に各搭乗して二機編隊を構成し、離陸後まず基本隊形(ノーマル・フォーメーション、編隊飛行の基本となる隊形であつて、訓練機が教官機とほぼ同高度で教官機の左右いずれかの後方約三〇度ないし四〇度の位置にあつて、両機の翼端の間隔を三フィート((約0.9メートル))に保持した状態で追従して飛行する隊形)、次に、疎開隊形(スプレッド・フォーメーション、索敵及び機動性に富んだ隊形の一つで、訓練機が教官機の左右いずれかの後方二〇度ないし四〇度、横間隔八〇〇フィート((約二四〇メートル))から一、〇〇〇フィート((約三〇〇メートル、下方五〇フィート((約一五メートル))から一〇〇フィート((約三〇メートル))に基本位置を置いて教官機に追従し、旋回時には訓練機は高度をかえずに追従飛行する隊形)の各飛行を行つた後、機動隊形(フルード・フォア・フォーメーション、戦闘間の相互支援を基本とした攻撃隊形として最適のものとされている隊形で、訓練機が教官機の左右いずれかの後方一〇度ないし三五度、横間隔五、〇〇〇フィート((約一、五二〇メートル))から八、〇〇〇フィート((約二、四三〇メートル))、上方二、五〇〇フィート((約七六〇メートル))から三、五〇〇フィート((約一、〇六〇メートル))に基本位置を置いて教官機に追従し、旋回時には訓練機は高度と速度を変換させることによつて追従飛行する隊形、なお後記3、(一)の説明を参照)の訓練を実施し、終了後単縦陣隊形(トレール・フォーメーション、接近した隊形の中では最も機動性に富んだ隊形で、訓練機は教官機の後流が自機の方向舵に軽く当たる程度の高度で、前後の間隔を二機長に保持した状態で追従して飛行する隊形)および同隊形による曲技飛行(トレール・アクロ)を行つて飛行場へ帰投し、自動方向探知器による進入訓練を行うというものであつた。なお、右各訓練項目のうち、同日訓練生が始めて実施する機動隊形について、三番機としての位置と機動を重点的に演練させることに主眼を置き、且つ右訓練を割り当てられた訓練空域で実施することとされた。

そして、被告人隈は、右小野寺主任教官の説明が終了したころ、一時飛行指揮所幹部として勤務した後、前記のとおり当日午前中に割り当てられていた藤原訓練生との訓練飛行を行うため、同訓練生と飛行前の打ち合せを行い、午前一〇時五五分ころに離陸し、前記「盛岡」訓練空域で機動隊形等の編隊飛行訓練を実施し、午前一一時五五分ころ同飛行場に帰着した。

被告人市川は、右小野寺主任教官の説明が終了した後、前記のとおり午前中に予定されていた担当教官木村恵一との訓練飛行を行うため、同教官からさらに訓練実施上の諸注意を受けたうえ、午前一〇時三〇分ころ離陸し、「月山」訓練空域で機動隊形等の編隊飛行訓練を受け、午前一一時四〇分ころ同飛行場に帰着した。

2機動隊形に入るまでの飛行経過

<証拠>によれば、被告人両名の離陸前の行動及び離陸後機動隊形の編隊飛行に入るまでの飛行経過は次のとおりと認められる。

被告人両名は、前記の如く同日午後一時三〇分から午後二時四〇分までの間、被告人隈を教官とし同市川を訓練生とする二機編隊により「盛岡」訓練空域において機動隊形等の編隊飛行訓練を実施することとされていたため、それに先き立ち、同日午後一時前ころから、ブリーフイングルームにおいて飛行前の打合せを行つた。その際、被告人隈は同市川に対し、前記スケジュールボードに記載されていた事項を順次読み上げ、訓練時間が午後一時三〇分から午後二時四〇分までであること、コールサインは隈機がライラック・チャーリーⅠ、市川機がライラック・チャーリーⅡであること、ミッション・チャンネル、スタンバイ・チャンネルはいずれもタンゴ2であること、残燃料がなくなつた場合は教官機に報告すること、訓練空域は「盛岡」であること、をそれぞれ確認させ、次いで、右飛行中に実施する訓練の前記実施順序について説明し、さらに、編隊各機に故障が生じた場合にとるべき措置を指示し、最後に編隊飛行の各隊形および各隊形から次の隊形に移行する際の注意事項を指摘し、見張りを行うことについても注意をした。被告人両名は、右打ち合せを終えた後、離陸予定時刻の二〇分前ころから、各搭乗機の点検を行い、同日午後一時二六分松島飛行場管制所から地上滑走の許可を得て同飛行場二五滑走路手前に移動し、同一時二八分離陸許可を求め、直ちに許可されたので、同時刻ころ、同滑走路を離陸した。

離陸した両機は、基本隊形により速度約三三〇ノット(時速約六一一キロメートル)で上昇しつつ、一旦松島湾海上に出て左旋回し、再び宮城県石巻市東方付近より陸上に入り、同所付近上空から栗駒山の方向に機首を向けて上昇を続け、そのころ両機の交信用周波数を訓練用周波数(ミッション・チャンネル)のタンゴ6(予定のタンゴ2の市川機の受信状況不良による)に切り換えた後、一時三五分ないし四〇分ころ同県栗原郡築館町付近の高度約一二、〇〇〇フィート(約三、六五〇メートル)上空に至り、その付近から疎開隊形に移り、左右に旋回しつつ更に上昇を続け、一時四五分ころ、岩手県和賀郡湯田町内通称川尻付近の高度約二四、〇〇〇フィート(約七、三〇〇メートル)上空に達し、そのころ被告人隈は無線で同市川に対し機動隊形の基本位置に移行するように指示を与えるとともに、自らは高度約二五、五〇〇フィート(約七、七五〇メートル)に位置し、速度マッハ約0.72(真対気速度四四五ノット、時速約八二四キロメートル)で水平飛行を開始し、同市川は右指示に従つて隈機の約一〇度ないし三五度後方上空の高度約二八、五〇〇フィート(約八、六六〇メートル)、隈機との横間隔約五、〇〇〇フィート(約一、五二〇メートル)から約八、〇〇〇フィート(約二、四三〇メートル)の機動隊形の基本位置についた。

3機動隊形開始後の飛行経過

<証拠>によれば、前項記載のとおり、通称川尻付近上空で、市川機が機動隊形の基本位置に移行を完了した直後ころから、隈機が水平旋回飛行を開始し、市川機が同機に追従して機動隊形の飛行訓練を繰り返しつつ北進し、前記認定の本件接触位置付近上空で機動隊形による旋回飛行中市川機が全日航機と接触したと認められる。そこで、この間における自衛隊機の航跡を検討することとするが、これに先立つて、被告人らの実施していた二機編隊による機動隊形の一般的な飛行要領について考察しておくこととする。

(一) 機動隊形の飛行要領

<証拠>によれば、本件当時被告人市川ら戦闘機操縦課程の訓練生に対し編隊飛行訓練として行つていた機動隊形の飛行要領は以下のとおりであつたと認められる。

機動隊形(フルード・フォア・フォーメーション)は、戦闘間の相互支援を基本とした攻撃隊形として最良の編隊の隊形であるとされており、戦闘機操縦課程の訓練生に対する二機編隊による機動隊形の訓練は、訓練生に対し右隊形の位置と機動を習得させる目的で実施され、教官機が四機編隊の一番機、訓練機が三番機の位置について、疎開隊形から移行することによつて開始される。右に際しての要領は、訓練機が教官の機動隊形開始の指示に従い、疎開隊形の基本位置(前記1、(二)を参照)である教官機の後方二〇度ないし四〇度の線から同機の後方一〇度の線まで前進し、右一〇度の線に沿つて、高度をあげ、教官機との横間隔を開き、機動隊形の三番機の基本位置である教官機の左右いずれかの後方一〇度ないし三五度、同機との横間隔を五、〇〇〇フィート((約一、五二〇メートル))から八、〇〇〇フィート((約二、四三〇メートル))の教官機の上空二、五〇〇フィート((約七六〇メートル))から三、五〇〇フィート((約一、〇六〇メートル))の位置に移行することによつて行う。そして、機動隊形による水平直線飛行中は、訓練機は右の基本位置を保持して教官機に追従飛行し、この位置の保持は、前後の修正は高度と速度の変換により、また、横間隔の修正は機軸を変化させることによつて行う。次に、旋回飛行の要領は、まず内側旋回の場合(インサイド・ターン、教官機が訓練機の位置する方向に旋回する場合をいう)には、訓練機は教官機の旋回に従い、同機にバンクを合わせ、同機との横間隔を保つたまま、同機の後方一〇度の線まで前進し、速度を高度に変換して高度を上げながら、バンクを緩めて右一〇度の線上に沿つて同機の直上付近を高度差約三、五〇〇フィート((約一、〇六〇メートル))で交差して旋回の外側に出(クロス・オーバー)、次いで教官機の後方一〇度の線上に沿つて高度を速度に変換して高度を徐々に下げながら、バンクを調整して教官機との所定の横間隔まで開き、九〇度の内側旋回を完了した時点で旋回開始時と教官機を中心にして反対の側の基本位置につくこととなる。外側旋回の場合(アウトサイド・ターン、教官機が訓練機の位置するのと反対の方向に旋回する場合をいう)には、まず訓練機は教官機の旋回に従い、同機にバンクを合わせ、同機との横間隔を維持したまま、同機の後方三五度の線まで後退し、高度を速度に変換して高度を下げながら、バンクを深めて、同機の約六、〇〇〇フィート((約一、八二〇メートル))の後方を高度差約二、五〇〇フィート((約七六〇メートル))で通過して旋回の内側に入り(カット・イン)、次いで教官機の後方三五度の線上に沿つて速度を高度に変えて教官機との高度差を増しつつ、バンクを調整して、所定の横間隔を保ち、九〇度の外側旋回を完了した時点で旋回開始時と教官機を中心として反対の側の基本位置につくこととなる。そして、右の内側、外側の旋回飛行の要領に従つて左右の旋回を繰り返し行うものである。

なお、本件当時における訓練生に対する機動隊形訓練の場合には、教官は直線及び旋回飛行において原則として自機の高度を変化させず、旋回時のバンク角も一定に保つて飛行していた。

(二) 機動隊形以後の航跡

自衛隊機は、右に認定した二機編隊による機動隊形の飛行要領に従い、全日空機と接触するまで編隊飛行を行つていたものであるが、この間における自衛隊機の航跡(以下単に自衛隊機の航跡という場合はこの部分の航跡を意味する。)について事故調査報告書、防衛庁防衛局運用課長作成の「F―86F空中接触事故調査について」と題する書面、海法鑑定書はそれぞれ次のとおり推定しているので、以下これらにつき順次検討することとする。なお、接触直前の相対飛行経路の詳細については後に項を改めて考察する。

(1) 事故調査報告書の推定する自衛隊機の航跡について

イ 事故調査報告書は、自衛隊機の航跡について、教官及び訓練生の口述、F―86Fの飛行性能、推定空中接触位置等を考慮し、更に接触直前の航跡については右のほか、機材調査の結果判明した接触時の両機(全日空機及び訓練機)の姿勢、方向及び接触部位、機動隊形の飛行要領等から推定し、地図上に作図して示している。右作図された自衛隊機の航跡の概要は次のとおりである。

自衛隊機は、通称川尻付近上空に達して、市川機が隈機の右後方上空に位置して機動隊形の訓練を開始し、まず通称川尻を左にしてほぼ北東に向かい一八〇度の左旋回を行つた後若干直進し、次いで横手市を右にしてほぼ南西に向かつて一八〇度の右旋回を行い、旋回完了後ほぼ北東に向かい直線飛行をしながら「横手」訓練空域の北側境界線を通過し、「盛岡」訓練空域内において、ほぼ東に向かい九〇度の右旋回をした後、続いて一八〇度の左旋回を行い、さらに九〇度の右旋回を行つたうえ、ほぼ北東に向かつてジェットルートJ11Lの飛行制限空域(後記第五、二、3の説明参照)の西側に侵入し、そのころ岩手山を右にしその東北部付近で一八〇度の右旋回を行つた後、ほぼ南西に向かい若干の直線飛行を行い、さらに左旋回を実施して、同報告書推定の接触地点に至るとするものである。

なお、防衛庁防衛局運用課長作成の「F―86F空中接触事故調査について」と題する書面に記載された図面における自衛隊機の航跡は、事故調査報告書のそれとほぼ同様であるが、右防衛庁の調査については前記第三、一、2、(一)、(2)、ヘで述べたとおり、その基礎とされた資料や方法が必ずしも明らかでないばかりか、その調査の経過に徴すると、事故調査報告書について以下に検討するところと同様の指摘があてはまるものと考えられる。

ロ ところで、事故調査報告書は、自衛隊機の航跡につき、その最終旋回(一八〇度)位置付近を推定するにつき、市川機と全日空機との推定空中接触位置を一つの基準としていることは明らかである。しかしながら、前記第三、一、2、(一)で既に考察したとおり、右推定接触位置についてはいくつかの疑点が残り、あるいはこれより西側に寄つていたのではないかとの疑問を容れる余地がないではないものである。そうである以上右推定接触位置を基準の一つとして定められた自衛隊機の右最終旋回の位置についても、これをそのまま採用することはできない。

ハ また、事故調査報告書によれば、自衛隊機の航跡を推定するにあたり、教官及び訓練生から得た口述をその重要な資料としていることが窺える。ところで、被告人らが事故調査委員らに対しどのような説明をしたかについて、その詳細は明らかではないが、証人後藤安二、同山県昌夫は、この点につき、事故調査委員会の後藤安二、瀬川貞雄、井戸剛の各委員らが松島基地に赴き、模型を使用するなどして被告人らからその飛行経過を聴取し、主にこれによつて接触直前までの自衛隊機の航跡を推定し、また、接触直前に自衛隊機が一八〇度の右旋回を岩手山の東北部付近上空で行つている点についても、被告人らに接触位置や接触状況等を説明して話し合つたところ、被告人らもこれを了承するに至つたものである旨の供述をしている。

そこで、これらの点を、被告人らの当公判廷における各供述及び検察官に対する各供述調書中の供述と対比検討すると次のとおりである。

まず、被告人隈は当公判廷において「築館付近までは事故調査報告書のとおり大体正しい航跡であるが、それ以後は大まかな感じの航跡しか覚えていない。」「接触直前に約一八〇度の右旋回をし、少し直進してそれから左旋回に入つて約三〇度位旋回したあたりで接触事故が起つたことは間違いない。接触直前の約一八〇度の右旋回の時に岩手山の北を廻つた記憶はない。」と供述し、同被告人の検察官に対する昭和四六年八月四日付の供述調書においては「川尻付近上空で、機動隊形に移行し、その後は左あるいは右に旋回し、横手空域に入つてからその空域内で南に行つたり、北に行つたりしてそれから空域を出て北進した。」「衝突した位置から西方約九マイルの位置に達したところで大体一八〇度右に旋回し、約一〇秒位直進して左旋回に移り、七二七型機を発見したのは左旋回をはじめて一五秒から二〇秒位経つた時点と思う。」と述べ、同月九日付の供述調書(二〇枚綴)では「川尻付近の横手の街の中心部から東北東二〇マイル位の位置で機動隊形に入り、横手の街を目標におき飛行した。市川機が左右のいずれの後方に位置したか記憶がなく、機動隊形をとつてから何回か旋回をしたが、何回位旋回したか記憶がなく、三六〇度旋回したこともあり、三〇度位旋回したこともある。その外九〇度、一八〇度旋回したこともあつた。」「横手空域を出る前後から飛行目標を盛岡の街と岩手山においた。そして、北進する時に盛岡の街は一時二〇分から一時三〇分の位置に見、岩手山は一二時半位の位置に見た。その後右旋回を始める時には盛岡の街は三時の方向で、距離は二五マイルないし三〇マイル位、岩手山は一時位の位置であると思つた。この点の記憶は必らずしもはつきりしない。」、また、接触直前の状況については、同調書においておおよそ「横手空域内から同空域の外に出て二分位北進し、その時点から約一八〇度の右旋回を二分間位で行い、一五秒ないし二〇秒位直進飛行した後、左旋回に入り更に一五秒ないし二〇秒位の時点で七二七型機を発見した。」と述べている。さらに、同被告人の同月二〇日付(一二枚綴)の供述調書によれば「川尻上空で機動隊形に入つたが、市川機が左右いずれに位置していたか覚えていないし、最初の旋回方向も記憶がない。その後何回か旋回を繰り返したが旋回角度もいろいろ変えている。訓練空域に入つてから一時南方に飛んだこともあるが全体としては北に向かつていた。」また、接触直前の状況についても、ほぼ前記各供述調書と同様の飛行経過を述べ、約一八〇度の右旋回を開始する時点において「岩手山を一二時か一二時半の方向に見てから旋回を続けたので岩手山の南側を通つた事は間違いない。また右旋回の途中で前方左右四五度位の範囲内に盛岡市をちらつと見たが、左右いずれであつたかはわからない。それから直線飛行の後左旋回に入り事故発生までに盛岡を左手にちらつと見た。」と供述している。

次に、被告人市川は、当公判廷において、その飛行経過については具体的な供述をしておらず、同被告人の検察官に対する各供述調書においても、離陸後石巻市はわかつた(同月二〇日付調書)が、それ以外の地形で目に入つたのは山や田圃ばかり(同月一〇日付調書)で特定できる所はなく、ただ、回数として四回位機動隊形の旋回を行い、五回目位の旋回のときに接触した(同月一六日付調書)ものである旨の供述をしており、また、接触直前の状況(この点の供述については後に相対飛行経路の所で更に検討する)については、かなりよく記憶している部分もある反面当初自機と教官機との関係位置を誤認している点なども認められ、全体としてこれによつて直ちに自衛隊機の航跡を認定し得る程の供述はしていない。

以上のとおりであつて、被告人両名特に被告人隈の当公判廷ならびに検察官に対する各供述調書における飛行経過についての供述は、調査委員らに対し被告人らが供述したとされている内容と一致するところもあるようであるが、具体的に検討してみると、自衛隊機が機動隊形以後全体として北進したこと、接触直前に北進を続けながら約一八〇度の右旋回をしたのち若干直進し、その後左旋回を行つたこと以外には、明確に一致すると認定し得る部分は見出し難い。また、本件接触地点が前記のとおり事故調査報告書の推定位置よりあるいは西側に寄つていたのではないかとの疑問が残る以上、被告人隈の接触直前の約一八〇度の右旋回のとき岩手山の北側まで出たことはないとする前記供述も、直ちにこれを排斥することができない。

以上の諸点からすれば、自衛隊機の航跡が、ほぼ事故調査報告書の指摘するような態様のものであつたとしても、全体にわたつて正確な航跡であるとまで認定することはできない。

(2) 海法鑑定書の推定する自衛隊機の航跡について

イ 海法鑑定書は、全日空機の航跡及び接触地点を推定したのと同様、主としてカラー・データ・フィルムの解析を基にして自衛隊機の航跡を推定している。その要旨は次のとおりである。

前記第三、一、2、(一)、(2)、チに記載した方法により、カラー・データ・フィルムの接写フィルムを解析して一〇〇万分の一の地図に各航空機の航跡を位置させ、そのうち右フィルム上編隊である旨を表示する記号のものは他に見いだせないこと及び全日空機との位置関係が妥当であることから自衛隊機の航跡をそれと決定した。また右自衛隊機の航跡は一三時四九分九秒から同五九分九秒まで(一分間隔で撮影したフィルムの一一コマ分)しか得られなかつたが、以後接触地点に至るまでの航跡は、全日空機との相対位置関係に、時間的要素、接触状況、気象状況およびF―86Fの性能等を合わせ考えると、別紙第二の図面の範囲〔B〕内を飛行していたものと考えるのが相当であつて、岩手山を大きく北に越えて飛行したとは考えられないというにある。

ロ ところで、<証拠>によれば、航空自衛隊三沢基地において右カラー・データ・フィルムを検討したところでは、F―86Fの航跡は撮影の状況が悪くて不明であつたとされている。また、<証拠>によれば、同人らが調査委員として事故直後の昭和四六年八月三日三沢基地に赴き、同基地において、カラー・データ・フィルムを投影して調査に当つた際にも、自衛隊の担当者から右フィルムでは自衛隊機の航跡は判明しない旨の説明がなされ、右調査委員らもこれを了承しており、その後事故調査委員会が入手した右カラー・データ・フィルムの解析から得た航跡図(証人山県昌夫の尋問調書によれば右航跡図は前記回答書添付の図面とほぼ同一のものと認められる。)にも全日空機の航跡のみしか記載されておらず、自衛隊機のそれは不明であるとされていたことが認められる。右のとおり、防衛庁・自衛隊においては三沢基地のカラー・データ・フィルムからは自衛隊機の航跡は得られないとの一貫した見解を示している。もつとも、右カラー・データ・フィルムから自衛隊機の航跡が得られなかつたとする理由については、証人後藤安二、同井戸剛の各供述その他の証拠を検討しても、納得するに足る説明は見出し難く、証人海法泰治の「一分間隔で撮影されたカラー・データ・フィルムを逐一確認したところ、右フィルムのうち編隊であることを表示するベクトル記号が撮影されていたのは四コマであつたが、全体的に見て前記一一コマを自衛隊機の航跡と判断した。」との供述等に鑑みても、右フィルムに自衛隊機の航跡が全く撮影されていなかつたものと考えるのは困難というほかない。

しかしながら、証人井戸剛の供述によれば、後日右フィルムの焼付け写真を検討したところ、海法鑑定書が自衛隊機の航跡であるとしているフィルム上の記号が編隊である旨のベクトル表示を示しておらず、また、その航跡番号も複雑に変化しており、ある程度推定でわかるのと全く解読不可能な番号のものとがあつた旨述べており、右証言が全面的に正当なものであるとはいえないにしても、海法鑑定書のこの点に関する見解の普遍性を疑わしめるには十分と考えられ、その他全日空機の航跡の箇所で指摘したカラー・データ・フィルムの解析による航跡推定上の問題点をも併せ考慮すれば、右海法鑑定書が自衛隊機の正確な航跡を示しているかについてはなお疑問を抱かざるを得ない。

ハ さらに、右カラー・データ・フィルムの解析から求めた自衛隊機の航跡は、事故発生前の機動隊形訓練の途中において既に飛行制限空域内に侵入し、ジェットルートJ11Lの中心線上で大きく旋回を実施しているような航跡となつているが、後記認定の如く被告人隈が教官としてジェットルートJ11L及びその飛行制限空域について一応の認識を有していたと考えられるにかかわらず、前掲の同被告人の当公判廷における供述及び検察官に対する各供述調書においても、右のような極端な飛行をしたことを肯定するような供述は存しない。この点においても右航跡の信憑性には疑問がある。

なお、同鑑定書では、接触直前の自衛隊機の航跡については、別紙第二の図面の範囲〔B〕内を飛行していたものであると指摘するのみで、具体的な航跡は示しておらず、さきに認定した接触地点と矛盾するものでもない。

(三) 本件証拠上認定可能な航跡

以上各点にわたつて検討したとおり、本件証拠上は、機動隊形に入つてからの自衛隊機の航跡を、すべてにわたつて具体的に確定することはできず、結局、自衛隊機の航跡として認定しうるのは、通称川尻付近上空において機動隊形に移行した後、ほぼ機動隊形の飛行要領に従つて、横手空域北部及びその北側上空で一八〇度及び九〇度の旋回飛行を四回位くり返しながら北進し、さきに認定した接触地点とほぼ同緯度付近まで進行したところで、更に北進を続けつつ約一八〇度の右旋回を行い、次いで一〇数秒の直線飛行をした後、左旋回を継続中隈機に追従していた市川機が全日空機に接触した事実に止まり、これ以上強いて推論することはむしろ適当とはいい得ない。

三接触直前の相対飛行経路

全日空機及び自衛隊機の離陸後から接触事故発生に至るまでの各航跡については、前記第三の一及び二で詳細に検討したとおりであるが、いずれについても、そのすべての航跡を具体的に確定することまではできず、本件証拠上は、前記のとおりの航跡を認定し得るに止まるものである。従つて、各機相互の飛行経路についても、そのすべてにわたつてこれを確定し得るものでないことも当然である。しかしながら、そのうち、接触直前における各機の相対飛行経路については、接触状況等を基準として、被告人らの注意義務の存否を判断するために必要な限度においては、これを認定することが可能なものと考えられる。そこで、以下本件各証拠に基づき、この点について考察することとする。

1事故調査報告書による接触直前の相対飛行経路

(一) 事故調査報告書によれば、接触約三分前からの各機の飛行経路は、全日空機のフライト・データ・レコーダの記録の解析値、教官及び訓練生の口述、機材調査の結果判明した接触時の両機の姿勢、方向及び接触部位、推定空中接触位置、F―86Fの飛行性能、機動隊形の飛行要領等から、次のとおりであると推定している。

即ち、「全日空機は、高度二八、〇〇〇フィート(約八、五〇〇メートル)、真対気速度四八七ノット(マッハ約0.79=時速約902キロメートル)、機首方位一八九度ないし一九〇度で接触時まで水平定常飛行を続けていた。教官機(機動隊形の編隊長機)は、高度約二五、五〇〇フィート(約七、八〇〇メートル)、真対気速度約四四五ノット(マッハ約0.72=時速約824キロメートルで)で二分の一標準率旋回の右旋回を約一八〇度行い、約一五秒直進して、次に左旋回に移つた。教官は、左旋回を続行中、時計の六時半から七時(一九五度から二一〇度)位の方向に、訓練機とそのすぐ後方に接近している全日空機を発見し、直ちに訓練生に対し接触回避の指示を与え、同時に訓練機を誘導するつもりで自己機を右に旋回させ、続いて左に反転し、墜落していく全日空機の下をくぐり抜けた。訓練機(機動隊形の三番機)は、教官機の右側後方約二五度の線上約五、五〇〇フィート(約一、六五〇メートル)の距離の上空に教官機との高度差約三、〇〇〇フィート(約九〇〇メートル)をとつて位置し、教官機の右旋回開始と同時に機動隊形の飛行要領に基づいて、速度を高度に換えて教官機の上空を通過し、約九〇度の旋回時点で旋回の外側に移行し、続いて高度を速度に換え、教官機の後方を通過して約一八〇度の旋回終了時点で、教官機に対し旋回開始前とほぼ同じ関係位置に戻り、教官機に追従した。次に左旋回が開始されるや、外側旋回の飛行要領に基づいて、高度を速度に換えながら教官機の後方を通過して旋回の内側に移行中、教官機の左側一五〇度ないし一六五度の方向約五、〇〇〇フィート(約一、五〇〇メートル)後方の位置に来た時、教官からの異常事態の通信が入り、その直後に自己機の右側時計の四時から五時(一二〇度から一五〇度)位の方向至近距離に大きな物体を認め、とつさに回避の操作をしたが、間に合わなかつた。」というものである。

(二) そして、右の接触約三分前からの各機の飛行経路図および同図中の接触約三〇秒前からの拡大図を、その間における各機の飛行状態のデータを次のとおりの数値として、作図している。即ち、全日空機は、終始真対気速度四八七ノットの直線飛行、教官機は、真対気速度四四五ノットで三〇度バンク水平旋回飛行、但し、接触四四秒前から二九秒前までの一五秒間は直線飛行、訓練機は、真対気速度を同四三三ノットないし同四五七ノットの平均値である四四五ノットとし、機動隊形の飛行要領に従い教官機に追従するものとし、なお、接触二九秒前から接触時までのバンク角及び降下率を、その時点に応じて修正し、また、右一五秒間の直線飛行中における教官機と訓練機との水平距離は五、五〇〇フィートとし、全日空機と訓練機との接触直前の飛行経路のなす角を七度として、作図されている。

右作図された接触約三分前からの各機の飛行経路図によれば、全日空機は、接触二分四四秒前から接触時まで直線飛行を続行し、教官機は、同時刻から全日空機の進路前方を横断する状態で、二分の一標準率旋回の右旋回を開始し、接触一分四四秒前に九〇度旋回し、さらに接触四四秒前に一八〇度旋回を終了し、直線飛行に移行したものとされ、訓練機は、右二分四四秒前に教官機の右後方二五度の線上にあつて右旋回を開始し、接触前一分四四秒前に旋回外側の教官機の左後方二五度の線上に達し、接触四四秒前には旋回内側の教官機の右後方二五度の線上に到達し、直線飛行に移行したものとして図示されている。そして、接触四四秒前から接触時までの各機の飛行経路図は、別紙第三の図面のとおりであるとされている(事故調査報告書添付図表第一一図の一及び二、なお、別紙第三の図面は事故調査報告書の右各図面に基づき作成したものである。)。

(三) ところで、事故調査報告書によれば、右接触約三分前からの各機の飛行経路図および三〇秒前からの拡大図の精度について、作図に用いた「データには、多少の誤差が存在すると認められるものの、教官機については教官が三〇度バンク水平旋回飛行(一部直線飛行)をしていたと推定されることから、おおむね実態に近いものと考えられ、訓練機については、訓練生が教官機との関係位置を速度、高度を変化させながら目測によつて保つていたため、教官機に比べてやや正確さが劣つたものとなつている。したがつて、接触約三分前からの航跡は、接触直前数秒間はかなりの精度を持ち、それから時間がさかのぼるに従つて精度が低下するとはいえ、おおむね妥当なものと考えられる。」としており、また、接触四秒前からの全日空機及び訓練機の関係位置については「全日空機及び訓練機の接触部位が明確にされたこと、接触時の全日空機及び訓練機の姿勢、方向等がほぼ明確にされたことならびに訓練生が全日空機を視認した時の全日空機及び訓練機の位置、方向等が判明したこと等により、ほぼ実態に近い関係位置が推定される。」としている。

2右相対飛行経路に対する弁護人の主張

弁護人は、事故調査報告書添付図面に図示された接触約三分前からの各機の前記飛行経路は、そのうち全日空機と市川機に関する接触前一五秒ないし二〇秒位までを除いて、いずれも信憑しがたく、右作図は事実に反し単なる作図のための作図にほかならず、刑事上の過失を問う前提たる事実認定の資料としては、到底採用できないものであると主張し、その理由として次のとおり述べている。

即ち、前記の事故調査報告書の添付図面によれば、隈機は接触二分四四秒前から右旋回を正確に一八〇度の半円を画くように行い、その後一五秒の直進飛行をして左旋回に移行し、また、市川機は一八〇度の右旋回開始時並びに終了時における隈機との角度は正確に二五度であり、旋回中も常に一〇度ラインを保持し、更に、直進後左旋回開始時における隈機との角度も正確に二五度であつて、ミッション・ブリーフィング・ガイドに示された標準的な機動隊形の旋回飛行を行つたものとして作図されている。しかし、訓練生が教範通りの標準的な機動隊形による旋回飛行を行うことはありえないし、本件当時被告人らが右のような標準的な旋回を行つた証拠はない。また、一八〇度の右旋回完了後若干の直進を行つた時間を、被告人隈の供述から直ちに一五秒間であると確定することもできない。そして、接触一五秒ないし二〇秒前以後の全日空機と市川機との相対飛行経路は、両機の接触状態からの逆算によりかなりの精度を持つているにしても、右両機と隈機との相対飛行経路は、いずれの時点においても単なる推測の域を出ないものであるというにある。

3右相対飛行経路の妥当性について

一般的に、高高度において高速度で飛行する航空機相互の飛行経路を、正確に再現することが極めて困難であることはいうまでもない。しかも、一部に非定常飛行が存在する場合は尚更のことである。本件においても、全日空機の飛行状態については前記第三、一、2、(二)で述べたとおり、同機のフライト・データ・レコーダの記録値がかなりの精度をもつて解析されていることから、ほぼ実態に即したデータが求められたものといえるが、自衛隊機は、有視界飛行方式による機動隊形の旋回飛行訓練中であつたため、時々刻々その飛行状態を変化させており、特に訓練機は、前記のとおりの飛行要領に基づいて飛行していたため、変動が大きく、また、自衛隊機にはその間の飛行経過を記録する装置も積載されていなかつたため、その飛行状態を直接認定しうる証拠としては、被告人らの供述以外にはなく、右被告人らの供述のみによつて、すべてにわたつて正確な数値を求めてその飛行経路を厳格に再現することは極めて困難というほかない。また、相対飛行経路の図面を作成するに際しては、事故調査報告書が前記相対飛行経路図の作成について指摘しているとおり、作図の際に使用した各機の飛行状態のデータに多少の誤差があること、例えば、訓練機の真対気速度についてはその平均値によること、また、全日空機と訓練機との接触直前の飛行経路のなす角(前記第二で認定したとおり五度ないし七度)を七度とすることなど、ある程度相対飛行経路図の精度に微妙な影響を及ぼすことがありうる一般的基準に準拠せざるをえないところである。従つて、この意味において、事故調査報告書による接触三分前からの相対飛行経路図も、もともと絶対的に実態に合致するものではありえず、そもそもそのようなものを求めることは不可能な事柄であるといつて過言ではない。

しかしながら、当裁判において、接触直前の相対飛行経路を求めようとするのは、その絶対的な相対飛行経路自体に意味があるからではなく、これを基にすれば、被告人らに注意義務違反、即ち本件においては後述する如く視認による接触予見義務違反が存在するか否かを決定するために必要であるからである。従つて、相対飛行経路図が絶対的な航跡を再現しているものではなくても、概ね事実に近いものであつて、被告人らの右予見義務違反の有無、その前提としての視認の可否に影響を及ぼす程実態と齟齬するものでなければ、これを相対飛行経路と認定して、判断の基準に使用しても、何ら不合理なところはないのである。そこで、以下、この意味において事故調査報告書の認定した相対飛行経路が不合理なものであるかどうかを検討してみよう。

(一) まず、事故調査委員会にあつて右接触約三分前からの各機の飛行経路図の作成に関与した後藤泰治委員及び山県昌夫委員長は、同図の作成過程や信用性について、それぞれ次のとおり供述している。

証人後藤泰治の尋問調書によれば、右接触約三分前からの各機の飛行経路は、そのうち全日空機の飛行経路はフライト・データ・レコーダの解析値を、また自衛隊機のそれについては被告人らの口述をそれぞれ基礎資料としたものであり、更に、同図では自衛隊機は「一八〇度回つたように書いてあるが、これがぴつたり一八〇度かどうかということは定かではない。但し、ぶつかつたのは事実であるから、それから逆算すると作図のようになり、秒数が先になるほど、誤差は大きくなつてくるけれども、そのぶつかる寸前になればなるほど誤差とか、関係位置というものはまず間違いないものだろうと委員会としては判断している。」と述べ、さらに教官機の飛行経路については「これも結局接触点が基準になつており、そのときの自衛隊機相互の位置関係を被告人両名に個別に尋ねたところぴつたり符合し、接触地点は大体教官のほうから見て左の六時か七時の方向の五、〇〇〇フィートから六、〇〇〇フィート後方だつたということから逆算して、教官機の位置を想定した。」と証言している。

証人山県昌夫の尋問調書によれば、同図については「接触の角度、飛行機にそういう痕跡が残つているとか、最後のポイントは割合はつきりしているわけである。だからいわば接触のときが一番正しいんで、接触の時刻からさかのぼるにしたがつて必らずしも正確ではなく、正確度が落ちる。」「教官あるいは訓練生の記憶が確かではないが、どこでどんな角度に見えたかというようなことも聞いているので、そういうようなことを土台にして航跡を書いたというだけである。むしろ、拡大図は相当信憑性のあるもので、四秒前からの航跡が絶対に正しいと思つてはいないが、こういう相対位置であつたことは確かであると思う。」とそれぞれ供述し、自衛隊機相互の飛行経路については「大体機動隊形の飛行要領に基準を置いて書いた。当日訓練生がそういう理想的な隊形をしていたかということはそうでないという証拠はないから少なくともそう考えざるをえない。」と証言している。

右両名の供述、事故調査報告書並びに同図面及びその拡大図によれば、接触約三分前からの各機の飛行経路図作成の過程は、概ね、接触直前の全日空機と市川機との相対飛行経路については、接触の状況を基準とし、これに先立つ左旋回中については、市川機のバンク角、降下率にその都度修正を加えつつ両機の相対飛行経路を決定し、他方、自衛隊機相互の飛行経路は、先ず被告人らの供述に基づいて接触時における隈機と接触点との位置関係を求めたうえ、それ以前については被告人らの供述と機動隊形の飛行要領に従つて、それぞれ作成されたものであると認められる。

(二) ところで、全日空機と市川機との接触については、前記第二で認定したとおり、接触時の両機の姿勢、方向、接触部位等の接触状況が明確にされているため、全日空機と市川機との相対飛行経路についても、右状況を基準にさかのぼつて推定可能な範囲においては、ほぼ実態に即して再現されたものと考えることができる。なお、証人後藤泰治の尋問調書によれば、同図を作成するにあたり、全日空機と市川機との接触直前の飛行経路のなす角を七度として作図した理由として、事故調査報告書の五度ないし一〇度の中間値を用いたと供述するに止まるが、証人荒木浩の尋問調書によれば、右角度はむしろ五度から七度であると認める可能性が大きいと述べていることからしても、右角度を七度として作図されたことに合理的根拠がないとはいえない。

(三) 次に、事故調査報告書によれば、接触直前の自衛隊機相互の飛行経路のうち、旋回中の経路は、機動隊形の飛行要領に従つて作図され、また、右旋回一八〇度終了後若干水平直進飛行した際の時間を一五秒間とし、その間の相互の水平距離を五、五〇〇フィート、直進飛行から左旋回に入る時点における訓練機の位置は教官機の右後方二五度として作図されているので、これらの点の妥当性について以下に検討する。

(1) まず、この間における飛行状態について、被告人両名のうち、被告人隈は、前記第三、二、3に記載したとおり、接触直前における自衛隊機のおおよその航跡を述べているが、更に詳細に検討すると、その間の自衛隊機の飛行状態について次のとおりの供述をしている。

同被告人の昭和四六年八月四日付の検察官に対する供述調書では「左旋回を開始する時には二番機(訓練機)は一番機(教官機)の右後方上方に位置していたが、一番機が左旋回を開始したのに従つて二番機は一番機の右後方上方から一番機の左後方上方に移り始め、一番機の真後から左側に移つた時727型機が市川の塔乗機のすぐ後に見えた。」、同月九日付の調書では「旋回する場合にはパンク角三〇度以上の角度をとつたことはないし、速度もマッハ0.72を保ち、高度も長機は二五、五〇〇フィートを保つていた。」、同月一三日付の調書では「右旋回に移る時には、市川機は私の機の右後方約三〇度の位置を飛行していた。その時の市川機と私の機の高度差は約三、〇〇〇フィート、距離は約六、〇〇〇フィートと思われる。」「727型機を発見した時には、市川機は私の機から見て七時の方向に位置していたか、私の機との距離は約六、〇〇〇フィート、高度差二、五〇〇フィート位と思う。」「私の機は終始マッハ0.72を維持していた。」「市川機は0.72から0.74まで変化させ、七二七型機を発見した位置では0.74位だつたと思う。」、同月二〇日付の調書では従前旋回中は教官機は水平飛行をしていた旨供述していたのを「旋回の際上昇あるいは下降したことがある。」と供述を変更し、同月二一日付の調書では「事故直前の左旋回は水平旋回であつたことは間違いないが、直線飛行の前の段階の右旋回については、水平旋回だつたと思うがはつきりしない。」とそれぞれ供述している。また、同被告人の供述書謄本にも「午後二時三分ころチャリーⅠ(隈機)は左旋回を実施していた。チャリーⅡ(市川機)は旋回の外側にいたため、チャリーⅠの後方約六、〇〇〇フィート、高度約二八、〇〇〇フィートでチャリーⅠの左側に移行して来た。私が左側に目を転じた時南進するB―727を視認しチャリーⅡと同高度であると判断した。」と記載している。更に、同被告人は、当公判廷で、昭和四六年八月一三日付の検察官調書に添付されている航跡図は訓練機の教科書どおりの関係位置を記載したもので、市川機が実際に飛行した航跡は覚えていない旨述べているが、全日空機を発見した時の状況については、自機が左バンク三〇度で旋回中に、市川機との関係位置が大体六、〇〇〇フィート、高度差二、五〇〇フィートであつたとき、全日空機が自機の七時から七時半の方向に、市川機と同高度でそのすぐ後ろに接近しているのを発見した旨供述している。

次に、約一八〇度の右旋回後若干水平直線飛行した際の飛行時間については、同月四日付の検察官調書では「約一〇秒」、同月九日付調書(二〇枚綴)では「一五秒ないし二〇秒くらい」、同月二〇日付調書では「約二〇秒程」とそれぞれ述べ、当公判廷において「あのとき少し直線飛行をやつたと言つたら、何秒くらいかと尋ねられたので、そんなに長くもなく、かといつてパッとロール・アウトしてすぐロール・インしたわけでもないので、そんな位でなかろうかという数字を挙げた。」「いろいろいわれたので、それでは一〇秒にしてくださいとか、一五秒にしてくださいと言つた。」と供述している。

(2) また、被告人市川は、検察官に対する同月二日付、同月九日付、同月一〇日付の各調書において、いずれも接触直前の自己機の飛行状態について「五回目の機動隊形の旋回飛行中、自機が教官機の左後方上空の基本位置から旋回をはじめ、一八〇度の左旋回を四分の三位行なつたところで全日空機と接触した。」と供述していたが、同月一六日付の調書において、取調官から被告人隈の供述と矛盾する旨指摘され、結局、確実に記憶している接触直前の状況として次のように供述している。即ち同日付の調書によれば接触直前に「何れにしても、自機は一番機の右後方上空に出て、フルードフォアの基本位置に至つた。その時の自機の位置は、一番機と横幅を約六、〇〇〇フィートにとつており、高度差は約三、〇〇〇フィートであつた。」「一番機が左旋回を始めた(なお同被告人は後に同調書中において左旋回を開始したのかあるいは左旋回の継続中であつたのかはつきりしない旨訂正している。)ので、私も同様左旋回を始めたが、一番機の外側から内側へ入るためバンク角を六〇度位に深め、高度を下げながら一番機との横幅を狭めて行つて一番機の後方約一、五〇〇フィートの付近で横切り、一番機の左側に出た。一番機の航跡を横切る時の高度差は約一、五〇〇フィートであつた。」「下降しながらスピードをマッハ0.72位から徐々に上げて行き、一番機との横幅を徐々に広げて行つた。下降中の自機のノーズ(機首)は三五ないし四〇度位下向けにしたと記憶している。このように下降しながらパンク角を若干緩め、五〇ないし六〇度位に直し、又次の上昇に備えてノーズを徐々に上げて行つた。自機は最も低い位置に下がつたが、その時点で自機のスピードは最高(マッハ0.74位)に達した。又その時のノーズは若干上がつた状態であつたが、角度は判らない。そして、パンク角を二〇度位にゆるめた。この時一番機を見たところ、一番機は自機の右前方約七〇度の線上下方にあり高度差約六〇〇フィート、横幅が約五、〇〇〇フィートであつた。その時点で、自機の右後方に何か物体があるような感じを受け、右後方に首を回して見たところ、大体五時の方向に民間機を発見した。」と供述している。また、同被告人は当公判廷において、全日空機を発見する直前の飛行状態につき「私の機は、左旋回で長機の内側に出てくる動作をしているときである。」「長機に対して横幅が大体いいなあという感じのところだつたと思う。そして、高度としてはだんだん下がつていつたのを機首を若干上げながら、これから上昇に移ると、そんな感じの時点であつた。」と供述し、それ以前の飛行経過については、前記のとおり、左旋回の直前に直進飛行をした確かな記憶はないと述べている。

(3) 以上被告人両名の各供述中には、記憶が必ずしも明確ではなく、そのため、現実の認識以外に、機動隊形の飛行要領を念頭に置き、これに基づいて飛行状況を供述したのではないかと思われる箇所が存在しないではない。また、被告人市川の供述のうち、接触直前の左旋回開始時(接触二九秒前)以前の飛行経過についての供述は、記憶が確実ではなく、被告人隈の供述とも矛盾する箇所があるなど、信用性に欠ける点が認められる。また、被告人隈は、概ね正確に当時の飛行状況を記憶して供述しているものといい得る(このことは教官が常に訓練生の動きを監視していることからしても当然である。)が、接触直前の約一八〇度の右旋回中及び直進飛行中の市川機との関係位置を、その細部についてまで遂一記憶しているものではなく、従つて、右供述から、直ちに、接触約三分前からの両機の関係位置が事故調査報告書のとおりであるとまではいいえない。しかしながら、前記の被告人両名の各供述を、前記1に記載した事故調査報告書の飛行データ及びこれに基づき作図された相対飛行経路と対比して検討してみても、これと特段矛盾するところはなく、むしろ、接触時に近づくに従つてかなりよく合致するところが認められるのである。そして、被告人らの前記供述は、目視により関係位置の距置の距離、高度、方位を判断して供述しているのであつて、かならずしもこれが正確な数値ではないことから考えても、事故調査報告書記載の数値との間に若干の齟齬があるからといつて、これを不合理な数値と考えるのは、当を得たものではない。

(4) ところで、証人菅正昭は、訓練生が機動隊形の飛行要領に従つて正確に飛行することはありえず、教官は、訓練生に教官機との正確な関係位置を保持させるため、その都度無線により指示を与えるものである旨供述している。そして、<証拠>も、機動隊形は横間隔、高度差ともに他の隊形より大きいため、正確な関係位置を保持し、旋回時に長機に確実に追従することもかなり困難であることを強調し、訓練生にとつて隊形維持の難しい編隊であると証言している。また、被告人市川と同期の訓練生である<証拠>も機動隊形の関係位置を保持することが難しいと供述する点において一致している。被告人隈も、当公判廷において、本件訓練中、被告人市川に対し、関係位置を保持させるため絶えず指示していた旨供述し、被告人市川は、本件当日はじめて機動隊形の編隊飛行を実施したものであり、当日午前中に行つた機動隊形の飛行訓練中には二度にわたつて教官機を見失つており(同被告人の昭和四六年八月一四日付及び木村恵一の同月一一日付検察官に対する各供述調書)、これらの事実からすれば、被告人市川が本件訓練において、終始模範的な機動隊形の飛行要領に従つて教官機との関係位置を正確に保持しつつ同機に追従していたものと認め難いことは、弁護人主張のとおりであり、このことは、程度の差はあつても、訓練生以外の操縦士にもあてはまることであつて、むしろ当然の事理とさえいい得るところである。

ところで、被告人市川は、前記第一で認定したとおり、本件事故当日までに、かなりの戦闘機の操縦経験を有し、編隊飛行についても、基本隊形、疎開隊形、単縦陣隊形、梯形隊形及びこれらの隊形による曲技飛行等も履修していたものであつて、機動隊形は右各隊形に比し、長機との間隔が左右、上下に離れるため、長機の動きを把握してこれに即応するのに困難を伴うとはいえ、本件当時、教官機は機動隊形としては未だ緩徐な旋回であるバンク角三〇度を保ち、且つ主として水平飛行を行つていたことに鑑みれば、被告人市川が、右隊形を維持すること自体が極めて困難な状況にあつたとまでは考えられない。また、被告人市川の操縦技能について、<証拠>によれば「市川二曹の技能は、特にすぐれていることもなく、また特に劣つていることもない。」と述べており、小野寺康充の同月一〇日付検察官に対する供述調書でも、同様の評価をしているとが認められる。そして、被告人隈は、当公判廷において、当日午前中に機動隊形の編隊飛行訓練を指導した被告人市川と同期生の藤原訓練生の練度と比較して「藤原は一回目であるし、市川は二回目であるので、藤原よりも市川のほうがうまくついて来た。けれど、習熟とかいうような段階ではなくて、学生として二回目で大体うまくついて来たということである。」と述べ、また同被告人の同月二一日付の検察官に対する供述調書によれば「市川の場合フルードフォアをやつてみて大体上手に私の後をついて来ていたので、技量があると判断し、旋回の際若干の上昇や下降を加え、又角度も三〇ないし五〇度といつた角度で行つたりしたわけである。」と供述していることが認められる。以上の事実を考慮すれば、被告人市川の技量に特段劣るところはなく、本件訓練時には機動隊形の隊形を維持して教官機にかなりよく追従していたものと認めることができる。

(四) 以上検討したとおり、事故調査報告書の接触約三分前からの各機の相対飛行経路は、絶対的に正確な飛行経路を再現したものとはいい難いにしても、前記各証拠に照らし、全体として概ね実態に近い相対飛行経路を示すものと認められるうえ、全日空機と市川機間の相対飛行経路は、接触直前については、客観的な接触状況からの推認等により、高い精度を有し、それ以前については、市川機が必らずしも厳密に機動隊形の飛行要領に従つて隈機に追従していたものではないにしても、前述の如く、ほぼこれに従つていたものと認めることが可能であり、他方、隈機は、教官として三〇度バンクの水平旋回飛行を保持していたことは同被告人の供述と一致し、市川機との関係位置についても常時同機を監視しつつ、その認識したところを比較的よく記憶して供述しており、これが調査報告書指摘の航跡と特段矛盾するものでないことは既に検討したとおりである。また左旋回前の直線飛行の時間についても、厳密に一五秒間と断定し得ないにしても、前掲各供述に照らして、少くとも約一五秒間は継続したと認定して不合理とは思われない。そして、接触直前の左旋回及びこれに先立つ直進飛行時の各機の飛行経路は、客観的に明白な接触時からそれ程遡るものではないことをも合わせ考慮すれば、少なくとも直線飛行時以後の各機の相対飛行経路を、別紙第三の図面のとおりであると認定して、差支えないと判断し得るところである。また、前述したように、ここに接触直前の相対飛行経路を認定するのは、被告人らの視認による接触予見義務の前提としての視認の可能性を検討する必要があるためであるが、右直線飛行に入つてから後である接触約四四秒前ころから以後における自衛隊機からの全日空機の視角は、空中における視認可能な視角の大きさに比較して、十分に大きいものであり、従つて右航跡に若干の差違があつたとしても、直ちにその結論を左右することはあり得ず、その他後述する視認の諸要素に、重大な影響を及ぼすものとも到底考えられない。この意味においても、接触直前の各機の相対飛行経路を、別紙第三の図面のとおりであると認定して、本件の考察を進めても、不合理なところは存しない。なお、弁護人の立証の前提である黒田鑑定書は、各機相互の視認の可能性を、別紙第三の図面のとおりの相対飛行経路をもとにして判断している。

第四接触時刻

一検察官主張の接触時刻とその検討

1全日空機ブームマイクの雑音の中断からの推定について

検察官は、いくつかの理由のうち、特に、全日空機が事故当時発したと認められる雑音を記録していた管制交信テープの分析結果から、本件事故発生時刻即ち接触時刻は午後二時(以下接触時刻の項において特に時間を示さない場合は同時台の数値であることを示す)二分三九秒ころである旨主張する。そこで、先ずその当否について考察する。

(一) この点につき事故調査報告書においては以下のような指摘がなされている。

即ち、全日空機の発した右雑音は、全日空機機長席のブームマイクの送信ボタン(操縦輪の左先端スタビライザー・トリムスイッチの裏側にあり、操縦輪に手をかけた正常な握り位置で、人指し指の腹の部分が触れる位置にある。)を送話せずに押すこと即ち空押ししたことにより、当時使用されていた第一超短波無線電話送受信器(135.9メガヘルツ、アンテナは胴体上部胴体ステーション七一〇にある。)から送信が行われ、札幌管制区管制所(受信アンテナ及び受信装置は三沢市にある。)、新潟飛行場管制所および松島飛行場管制所の各135.9メガヘルツの管制交信テーブルにほぼ2分32.1秒から同時に記録されており、そのうち2分36.5秒から44.7秒までの8.2秒間の雑音は、後二者の管制交信テープには連続して記録されているのにかかわらず、札幌管制区管制所のそれには37.9秒から38.5秒までの0.6秒間と42.5秒から44.6秒までの2.1秒間の二度の中断が存在する。そして右中断の原因については、本件事故当時において右三管制所の全日空機からの送信に対する受信条件は、全日空機が正常に飛行している限り、札幌管制区管制所において特に劣つているとは認められないから、同管制所の受信記録にのみ生じた右中断は何らかの物理的な理由によると考えるのが妥当であり、全日空機は、空中接触位置(第三、一、2、(一)記述の事故調査報告書指摘の接触位置参照)付近では、送信アンテナの指向特性に関して、機体の姿勢が正常な位置から外れてある程度変位すると、三沢市にある受信アンテナ方向の電界強度が著しく変化する可能性があるような微妙な位置および方位にあつたもので、このことから判断すると、右雑音の中断のうち2分42.5秒から44.6秒までのものは、全日空機の接触後に起つた機体の姿勢の変化によつて生じたものと推定され、2分37.9秒から38.5秒までのものは、その中断時間が0.6秒という短時間のものであることから、それが機体の姿勢変化に基づくものとは考えられず、その原因として先ず考えられることは、全日空機の送信アンテナと三沢市にある受信アンテナとを結ぶ線上またはその近傍に、かつ、送信アンテナのごく近くに一瞬他の物体が介在することによつて生じた電波の遮蔽、干渉の結果でないかということであり、そうすると右中断は訓練機が全日空機の近傍を通過することによつて生じた可能性が大きいと考えられ、そう考えると続いて起つた前記の中断に関する推定とも事象としてよくつながる。このことから接触時刻は一四時二分三九秒ころと推定される、と記述している。

(二) また、証人荒木浩は、右0.6秒間の雑音の中断が右のような事故調査報告書指摘の事由によつて生ずるかについて、「全日空機と自衛隊機の各模型の表面に銅粉を塗つて実験した結果、右のような事由により短時間の電波障碍が生じうることが確認された。」「全日空機のような大型機は慣性が大きいためその姿勢変化が0.6秒間という短時間のうちに行われることは極めて困難である。」と、また、2分42.5秒から44.6秒までの2.1秒間の中断については「おそらく接触によるわずかの衝撃のため機体が右にロールする形で姿勢の変化が生じたため、新潟、松島方向の電界強度は変らないのに三沢方向の受信電界強度が弱くなつたため札幌管制区管制所の交信テープにのみ雑音の中断が生じたと考えられる。」と供述しており、証人後藤安二、同山県昌夫も、右0.6秒間の雑音の中断について、ほぼ同趣旨の推測がなし得る旨供述している。

(三) 他方、右三管制所の管制交信テープに記録されていた右雑音及び全日空機機長の音声を独自に分析した黒田鑑定書及び同人の供述によれば、右各テープには、事故調査報告書の指摘と同時刻ころから、ほぼ同様の雑音及びその中断が記録されているが、右雑音に続く音声部分にも、これと類似の多数の欠損箇所の存在が認められ、そのうちには他の管制所の交信テープには記録されていながら当該管制所の交信テープのみに欠損が生じている箇所(同鑑定書付図七―一における松島飛行場管制所交信テープの14時2分49.86秒から50.92秒までの欠損)あるいは他の交信テープには記録がなく、特定の管制所のテープのみに短時間の記録がなされている箇所(前同図面中松島飛行場管制所交信テープの14時2分53.43秒から53.68秒までの録音部分)もあり、その原因は航空機の異常な姿勢変化により生じたものと考えられるとしている。

なお、事故調査報告書は松島飛行場管制所の交信テープのうち、二分四五秒以降については分析の対象としていない。

(四) 以上の諸点をもとに、右0.6秒間の雑音の中断が生じた原因の推定について検討する。

一般に、全日空機のような機体の大きな航空機は、その慣性が大きいため0.6秒間という極めて短時間のうちにその姿勢変化を完了することは著しく困難であり、その姿勢変化には比較的長時間を要するであろうと考えられるが、他面、送信アンテナとの関係において、その姿勢変化の全過程が電波障碍とはならずに、そのうち一部分のみが電波障碍となつてあらわれることがありうることも当然考えられるところである。そうであるとすれば、右0.6秒間の雑音の中断が短時間であるということだけから、直ちに機体の姿勢変化がその原因ではないとする考えには、疑問の余地があるといわねばならない。

また、右三管制所の管制交信テープの雑音および音声の記録には、前記二箇所の雑音中断のほかにも、かなり多数の音声記録の欠損が存在することは前記黒田鑑定書の指摘するとおりであり、しかもその中には0.6秒と同程度あるいはこれより更に短時間の欠損で、他の管制所の交信テープには録音されている部分がかなり存在する事実に照らせば、右雑音の中断部分のみをもつて訓練機による遮蔽であるとするのは疑問である。また事故調査報告書も指摘しているとおり、本件においてはその可能性が小であるとはいえ、空中における電波障碍の発生原因としては、右の外にも種々の事由が存在し得るところである。

してみれば、右0.6秒間の雑音の中断が、市川機が全日空機の近傍を通過することによつて生じた電波の遮碍干渉によつて生じたものであると断定するのは速断のうらみがないとはいえない。

(五) ところで、事故調査報告書によれば、全日空機機長がブームマイクの送信ボタンを空押しした原因については、次のようにこれを想定している。即ち、「ブームマイクの送信ボタンは前記のとおりの位置にあり、操縦輪にかけた手の指に力を加えただけで容易に入(オン)の状態になりうるが、右送信ボタンを空押しすると他の交信が著しく阻害されるため、航空機操縦士が平常の状況で意識的に空押しすることは考えられないから、当時何らかの異常な状況下にあつたためである。」とし、右の異常な状況については、接触時刻が二分三九秒であることを前提として、「接触約七秒前の0.3秒間の空押しは、全日空機機長が自己機の間近に訓練機を視認し、またはそれ以前から視認していた訓練機が予測に反して急速に接近してきたため操縦輪を強く保持したためであり、接触約2.5秒前から後の雑音は、訓練機が更に自己機の斜め前方に接近してきたため緊張状態になり操縦輪を再度強く握りしめたためである。」と推定している。

全日空機機長の状況に関する右のような推定は、接触時刻を二分三九秒であるとする限り、それなりの合理性を有することは一概にこれを否定することができない。しかしながら、後述するとおり、全日空機操縦者が接触七秒前から市川機を視認していたかについては、疑問の余地があるのみならず、仮に七秒前から視認していたものであるとしても、緊張感のためとはいえ、右の如くただ操縦輪を強く保持したばかりでなく送信ボタンの空押しを続けたと考えるのは、不自然の感が残らざるを得ない。

してみれば、事故調査報告書の右想定はそのままこれを採用することはできず、従つて、その前提としての接触時刻が二分三九秒であるとの事実関係とのつながりについても、直ちにこれを肯定するわけにはいかない。

2その他の理由からの推定について

(一) 検察官は前記二分三九秒が接触時刻として正確性を有する理由として、さらに次の各事由を主張する。

(1) 前記新潟飛行場管制所の管制交信テープの音声部分を分析すると、全日空機機長は二分五〇秒ころから53.6秒ころまでの間エマージェンシーの通報をしているが、フライト・データ・レコーダの垂直加速度は接触後一六秒前後でマイナス二Cを越えていることや、右垂直加速度の変化値の時間的推移からみて、全日空機機長が操縦輪を保持し通話することが可能なのは接触後十数秒間が限度であると考えられるから、接触時刻は二分三七秒以降である可能性が大きい。

(2) 全日空機機長は最初のエマージエンシーの通報を二分五〇秒ころ発しているが、同機長が接触による機体の異常を知り機位の立て直しを計るなどの行動に出た後右通報までに約一〇秒位を要したと判断されることから、接触時刻は二分四〇秒を中心とする数秒間の時間帯にあつたと推認される。

(3) 前記新潟飛行場管制所の管制交信テープに記録されていた被告人隈の253.9メガヘルツによる緊急通信によると、同被告人は2分48.3秒に最初のエマージエンシーの通報をしているが、全日空機の市川機への接近を認めて市川機に回避の指示を与えた直後、市川機の墜落を視認して接触事故の発生を認知したうえ、右通報をしたとすると、その間に六秒ないし一〇秒の時間的間隔があつたものと考えられるから、接触時刻は前記(2)の記載とほぼ同様の時間帯に含まれる可能性が大である。

(二) そこで検察官の右(1)ないし(3)の主張の当否について考察するに、検察官の右各主張の前提となる事実関係については、事故調査報告書も概ね同様の推定をしているところである。

(1) 先ず、検察官主張の右(2)及び(3)の主張について検討するに、右各主張においては、その推定している時刻にかなりの幅を有するものであるうえ、その推定は、全日空機機長及び被告人隈のそれぞれ緊急通信を発するまでの各操作に要する時間の推定を前提とするものであるが、かかる緊急時における操縦者の操作には推定の困難な不確定要素が多分に含まれると考えざるを得ない。特に全日空機機長のそれは推測以上に証拠はなく、また、被告人隈に関しては後記四で指摘するような事情もあつて、いずれにしても具体的にその所要時間を確定するのは困難であり、従つてこれにより接触時刻を算出するのは、たとえそれが裏付け的なものであるとしても、無理があるといわなければならない。

(2) そこで、検察官主張の(1)の点について以下検討する。

事故調査報告書は、人間が生理的にどの程度の加速度環境に耐えうるかという判定(加速度の大きさとその持続時間とに関連する。)に関して、負の垂直加速度については、根拠としうる資料がないが、本件の場合はフライト・データ・レコーダに記載された垂直加速度の時間的推移からみて、操縦輪の保持及び通話が可能なのは接触後約一〇数秒が限度であるとしている。

また、<証拠>は、いずれも、本件の場合、接触後十数秒(証人荒木の供述によれば一五、六秒)を越え、二〇秒の時点までも操縦輪を保持して通話をすることは、フライト・データ・レコーダ記録に示された負の垂直加速度の大きさ及びその継続時間から不可能と考えられるのみならず、全日空機は接触約二五秒後に空中分解しているが、それ以前においても機体の局部的破壊が生じていたはずであるから、送信アンテナも既に影響を受けていたと考えるのが相当であるとの趣旨の供述をしている。

そこで、フライト・データ・レコーダの垂直加速度記録の時間的推移をみると(事故調査報告書添付第五図)、接触時を同記録が瞬間的に1.1Gを示した時点であるとして、接触後一六秒ころ以降においてマイナス二Gを越え、接触後一八秒ころにはマイナス2.5Gとなり、二〇秒ころにはマイナス三Gを越えることが認められる。とすると、接触後一六秒ころには全日空機機長が操縦輪を保持して通話をすることはかなり困難な状況にあつたものと推認されるから、右時刻ころを、全日空機機長の通話がとだえた二分五三秒ころに該当するとする推理も、必らずしも不合理とはいえない。

しかしながら、証人井戸剛の供述によると、負の垂直加速度に対する人間の耐容性について、その継続時間や人体の条件等複雑な要素が関係して、一律には決し得ないが、動物実験などによりその研究が試みられているとされており、また、証人黒田勲の供述によれば、人間の負の垂直加速度に対する耐容性について根拠としうる資料が存しないものではなく、これらのデータによるとマイナス2.5Gにおいて七〇秒間、マイナス三Gにおいて二〇秒間の耐容性があり、少くともマイナス二Gまではいずれの資料もほぼ一致してこれを肯定しており、マイナスGが増加するにつれてデータが一致しないが、マイナス三Gにおいてもなお声程度は出しうるとの資料も存在するとされており、これを否定する何らの証拠も提出されていない。そうであるとすると、本件において接触後一六秒以降においても全日空機機長がなお負の垂直加速度に耐え得た可能性がないとはいえず、黒田証人が供述する耐容性の具体的内容は必ずしも明らかでないが、全日空機機長の通話の最後が絶叫であること、及び右負の垂直加速度は徐々に増加して行つたものであることをも合わせ考えると、全日空機機長が接触後一六秒以降においてなお操縦輪を保持して最後の通話を発することが不可能であつたと認定するのは、なお躊躇されるところといわねばならない。

二黒田鑑定書の接触時刻とその検討

黒田鑑定書によれば、接触時刻は、前記のとおり隈機の緊急通信の発信時刻が二分四八秒であることから、被告人隈が接触発見後右発信までに要した時間を航空自衛隊の教官パイロット一三名についてF―86F戦闘機による飛行試験により測定した結果、その所要時間は最少限一七秒であつたことから、接触時刻は二分三一秒以前とするのが妥当であろうとしている。

ところで、同人の供述によると、右飛行試験において設定した隈機の接触発見後の飛行態様は、同被告人が自衛隊の事故調査の際に述べた供述をもとにしたものであり、その供述は同被告人の検察官に対する各供述調書及び同被告人の当公判廷における供述とも大きく齟齬するものではないが、同被告人が、かかる緊急事態発生の状況下における飛行態様の詳細を正確に認識し、記憶しえたものか、且つまた非常時の行動を実験的に的確に再現し得るものであるかは、はなはだ疑問であるから、右試験時に設定した飛行態様が、本件事故時における被告人隈の行動と、全く相違するものではないにしても、その正確性にはかなり問題が残るものと考えられる。

よつて、右飛行試験の測定結果は、前記接触時刻に関する検察官の主張に対する反証としては格別、右のことだけから接触時刻を三一秒以前であると認定することはできない。

三海法鑑定書の接触時刻とその検討

<証拠>によれば、接触時刻は同鑑定書による接触地点(別紙第二の図面Eの範囲)への全日空機の推定到着時刻からして、二分一五秒プラスマイナス三〇秒と推定されるとしている。右は同鑑定人が行つた前記カラー・データ・フィルムの解析から求めた全日空機の航跡を前提として推定しているものであり、右航跡については前述した疑点がありうるほか、右接触時刻は、それ自体相当の幅を有するものであつて、事故調査報告書及び黒田鑑定書の接触時刻のいずれとも矛盾するものではない。

四本件証拠上認定し得る接触時刻

以上に検討したとおり、接触時刻を午後二時二分三九秒ころとする検察官の主張に副う証拠も存在するが、これに対しては上述したとおりの各疑点が残り、そうである以上、接触時刻を検察官主張の右時刻であると断定することはできない。従つて、以上に考察したところを総合し、本件事案の証拠に基づく限り、接触時刻は午後二時二分過ぎころであるという以上に、強いて認定することは適当でないといわざるを得ない。そして、本件接触事故の時刻を右のように認定しても、何ら不合理なところはなく、且つ、本件罪となるべき事実の認定として不十分なものとも解されない。

第五被告人両名に対する注意義務

一過失犯における注意義務

本件における被告人らの注意義務違反の存否を問題とするにあたり、先ず、過失犯における注意義務の性質、要件等について、一般的な考察をしておくこととしよう。

いうまでもなく、過失犯は、非故意の行為によつて、一定の法益侵害を惹起させたことをその前提とする。そして、右非故意の行為が、過失犯の構成要件に該当し、違法と評価されるためには、その行為が、社会生活上一般に要求される注意義務、即ちいわゆる客観的注意義務、に違反したものであることを要する。右のように、客観的注意義務は、当該行為者が法益侵害の結果を予見し、これを回避するため適切な措置をとるべく、社会通念上要請されるところの義務であるから、その内容を具体的に定めるにあたつては、当該行為者が行為のときに特に知つていた事情、および行為者がおかれた具体的状況下で一般通常人であれば知り得たであろう事情を基礎とし、そうした事情のもとで、一般通常人が結果の発生を予見し得たかどうか、ならびに、そのような具体的事情のもとで、一般通常人にとつてその結果を回避するに適した措置をとり得たかどうか、即ちいわゆる客観的予見可能性と客観的回避可能性の存否が、それぞれ検討されなければならない。

ところで、右のように一般通常人を基準として可能かどうかを決するについて、特別の知識や技能を必要とする特殊の業務にあつては、一般的には、当該特殊の業務に従事する者としての標準的能力者を基準とすれば足りるが、当該業務に一人前として従事するためには、社会生活上一定の資格が要求されている場合において、未だその資格が認められていない者については、一人前の標準的能力者ではなく、未資格の段階にあつて当該業務に従事する者としての標準的能力者、いいかえれば、通常人がその者のような立場に置かれたならば発揮するであろう能力、を客観的基準として判断すべきものと考える。本件についてこれをみるに、被告人市川は前記認定のように、第一、第二各初級操縦課程、基本操縦課程を終え、戦闘機操縦課程に入つて当該課程の訓練を受け始めた段階にあるものであつて、右基本操縦課程終了の段階で操縦士としての航空自衛隊の航空従事者技能証明を付与されてはいるものの、同証明書上単発三〇トン未満と限定記載され、証人佐伯裕章の供述及び航空従事者技能証明及び計器飛行証明の実施に関する達第六条によると、右記載以外に航空機の種別をT―34、T―1、T―33に限定されていて本件のF―86F等にはその効力は及ばないことが認められるのであつて、これらの事実からすれば、同被告人は、航空自衛隊内部において専ら教育訓練を受ける段階にあるもので、未だ同隊または一般社会における一人前の航空機操縦者と認めるのは困難である。従つて、同被告人についての前記予見ならびに回避の各可能性を判断するには、同被告人と同じ段階にある同隊訓練生の標準的能力者を、その基準とすべきものである。

以上のようにして、客観的注意義務の内容が具体化され、これに照らして、当該行為が右義務に違反することが確定すると、その行為は、過失犯の構成要件に該当し、且つ違法なものと評価される。

次いで、その行為の有責性が問題とされなければならない。即ち、当該行為者が、その有する注意能力を発揮して、結果の発生を予見し且つこれを回避するために適切な行動をとりえた場合、即ちいわゆる主観的予見可能性と主観的回避可能性があつた場合であるのに、行為者がその能力を発揮せずに不適切な行為に出たときに、その者に対して過失の責任非難が加えられるのである。

過失犯における注意義務についての以上のような見解を基にし、且つ右各要件の順に従つて、以下本件において、被告人両名についての注意義務違反の存否及びその内容につき考察を進めることにする。

二優位確認義務について

1本件訴因における機位確認義務

検察官は、被告人両名に対する業務上の注意義務として、後述する見張り義務とともに、これとは別個に、機位確認の義務が存在することを主張している。そして、右主張にかかる被告人らに対する機位確認義務及びその違反の具体的内容は、訴因変更請求書及び論告要旨等によると、大要以下のとおりとされている。

即ち、訴因変更請求書によると「被告人両名は『盛岡』訓練空域において二機編隊による機動隊形の飛行訓練を繰り返しつつ北進し、同日午後二時少し前ころ、岩手県岩手郡雫石町付近の上空に達したが、同所付近にはジェット旅客機の常用飛行経路であるジェットルート『J11L』(函館及び松島の各航空保安無線施設を直線で結ぶ線を中心線とし、中心線の両側8.7マイル((約一六キロメートル))までの幅を有するほぼ南北に走る経路)があつて、機動隊形訓練を右ルートの中ですれば右ルートを飛行するジェット旅客機に衝突する危険があり、また、松島派遣隊においては右ルートの中心線の両側五マイル(約九キロメートル)の空域を民間航空機との衝突防止のための飛行制限空域に指定しており、被告人両名は右のことを知つていたのであるから、被告人隈は編隊長機の操縦士として、右危険を避けるため、絶えず自機及び市川機の現在位置を確認しつつ飛行訓練を行つて、右ルートの中で右飛行訓練を行うことがないようにし、もつて他機との衝突を避けるべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、自機及び市川機の現在位置を確認することなく、右ルートの中に進入したことに気づかないまま右ルートの中の右飛行制限空域内において、漫然機動隊形訓練を続行し、また、被告人市川も編隊二番機の操縦士として、右危険を避けるため、絶えず自機の現在位置を確認しつつ飛行を行つて右ルートの中で右飛行訓練を行うことがないようにして他機との衝突を避けるべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、自機の現在位置を確認することなく、右ルートの中に進入したことに気づかないまま右飛行制限空域内において、隈機の飛行に即応して漫然機動隊形訓練を続行した。」というものであり、右訴因に対する釈明(昭和四七年一二月一日付釈明書)によれば「ジェットルートに進入するときに結果を予見し、同ルートの中での右飛行訓練を回避すべき義務が生ずるのである。」「幅をもつたジェットルートの中に入つて機動隊形の飛行訓練を続行すれば民間ジェット旅客機と衝突する危険があるから、中心線の両側8.7マイル以内のルートの中で右飛行訓練を行うようなことがないようにする注意義務があつたものである。」とし、また、飛行制限空域内であるから注意義務違反の行為であるという意味か、との釈明に対し「指摘のような意味ではない。」と答えている。

そして、論告書によれば「被告人らは、本件事故当日一四時少し前ころ、雫石町西方のJ11Lの西端付近において、機動隊形訓練を実施しつつ、同ルートの中心線に接近する形態で、同ルート内特に飛行制限空域に進入しようとした時点において、同ルート内特に飛行制限空域内を飛行中の民間航空機との接触の結果発生を予見しえたと認めるのが相当である。被告人らはこの結果発生を予見しえながら、機位確認義務の遵守を怠つたものである。しかも被告人らは、地文航法にタカンを併用することによつて機位確認をすることが可能であつたのである。そして被告人らがいずれもJ11L特にその飛行制限空域に接近した時点において現在位置を確認していたならば、相互にこれを通報し、直ちに飛行経路を変更してジェットルート特にその飛行制限空域への進入を防ぎ若しくは最も危険性の少ない最短距離で同ルートを横断して離脱することによつて容易に本件事故の発生を防止できたと認められる。特に隈機が同ルート内の飛行制限空域に進入して間もなくの接触二分二〇秒前ころ、全日空機が視認可能な視角の大きさ二分2になつた際の同機の位置は市川機の北方約一四キロメートルの地点にあつたことを考慮すると回避が可能であつたことは一層明らかである。しかも同ルート進入後接触までの隈・市川機と全日空機との相互の位置関係及び小型機が回避に要する時間を考慮すれば、飛行制限空域進入後なお接触一〇秒前ころまでに正確な機位を確認し、自機が飛行制限空域内にあることを認識すれば、市川機とともに直ちに同空域を離脱することによつて容易に本件結果の発生を回避し得たのである。」と論述している。

ところで、右の主張経緯によつて明らかなように、検察官は、当初は、ジェットルートの保護空域(前記中心線から両側8.7マイルの幅を有する区域、検察官はこれを含んでジェットルートと呼んでいる。)への進入及びその中での飛行訓練の継続が注意義務違反の行為を構成するものであつて、前記制限空域への進入及び訓練継続が義務違反となるものではないと主張しながら、後には、「ジェットルート『特に』その飛行制限空域への進入を防ぎ」等と、飛行制限空域への進入及びその中での訓練継続が注意義務違反の重点であるかのような主張をなすに至つている。また、飛行制限空域内においても、更に時間を区切り、「接触二分二〇秒前ころ」あるいは「接触一〇秒前ころ」なる時点を設定し、右各時点において機位を確認して同空域から離脱すべき義務があつたと主張しているようにも解せられる。以上のように、検察官の主張は、そのいずれの時点における義務違反が、本件における結果と直接関係を有する具体的な義務違反行為に該当すると主張しているのか、明確を欠くきらいがあるといわざるを得ない。

しかし、検察官としては、被告人らが機動隊形の訓練中絶えず機位を確認することによつて、指定された「盛岡」訓練空域(なお、その範囲については、同空域設定の経域設定の経緯について認定したとおり、必ずしも明確に範囲を指示して設定せられたものではないので、その全周を線をもつて画することができるものではないにしても、前掲各証拠によれば、少くとも、その東側はJ11Lの飛行制限空域西側線までとして設定されたものと認定することが可能である。)を遵守し、これに隣接するジェットルートJ11L(保護空域を含んだ意味で検察官がジェットルートという用語を使用していることは前述したとおりである。但し、そうすると右「盛岡」空域自体が検察官のいうジェットルート内に一部入つていることになる。)あるいは少くともその飛行制限空域内に進入し、機動隊形の訓練を続行してはならないという一般条理上の注意義務が存在することを、その主張の前提としているものと解することができるから、以下これらの点につき順次考察する。

2ジェットルートの保護空域とその進入及び訓練回避義務

(一) ジェットルート設定の経緯

<証拠>によれば、以下の事実を認定することができる。

我国の航空交通管制業務は、従来主としてプロペラ機を対象としたいわゆる航空路管制方式によつていたが、昭和三〇年代後半からジェット機が漸次増加するにつれ、運輸省航空局では、防衛庁、米軍、民間航空会社等関係各機関と協議したうえ、航空機の高速化及び航空交通の輻輳化に対処してジェット機の運航特性上、その直行飛行を可能ならしめる等、運航の能率化を図るとともに、航空路におけるプロペラ機との空域を分離し、運行の安全を確保する目的をもつて、これに応じた管制方式として、高高度管制方式を採用することとし、昭和三六年一〇月三一日付空管第二六八号「高高度管制の実施について」と題する文書により、その基準を関係各機関に通知した後、同三七年四月二三日付空管第一一四号「高高度管制業務の実施について」と題する文書により、同年五月五日から右高高度管制業務を実施する旨通知し、同日からこれを実施するに至つた。

右空管第二六八号によれば、我国の領土及びその周辺上空二四、〇〇〇フィート(七、三〇〇メートル)以上の高度の空域を高高度管制区と呼称される航空交通管制区として指定されるものとしたうえ、右空管第二六八号に添付された「高高度管制区における飛行方式」において、右高高度管制区を有視飛行方式により飛行する航空機については従前からの航空法施行規則(同規則五条四号)を適用するが、同管制区を計器飛行方式により飛行する航空機は、できるかぎり同空管第二六八号の付図に示されたジェットルートを利用して飛行すべきものとした。また、右空管第二六八号に添付された「高高度管制方式について」によれば、ジェットルートは、高高度管制区において、原則として三〇〇浬以内の距離にある高高度用航空保安無線施設を直線で結ぶ経路で当該無線施設から一〇〇浬までは中心線の両測一〇マイル(8.7海マイルに相当する。)、それ以上のときには当該無線施設より五度の角度で中心線から縁までの幅を増し、一五〇浬の地点で幅一五マイル(一三海マイルに相当する。)になる区域を有する経路であると定義し、それぞれJを前置し経路番号及び無線施設の種類の略号による名称が付されることと定められた。そして、ジェットルートJ11Lは、右空管第二六八号のジェットルート図では、ジェットルートJ15Lの名称により函館・松島の両航空保安無線施設を直線で結んだ経路として表示されている(なお昭和三六年一二月一日に名称が「J11L」と訂正された。)。

右のようにして設定されたジェットルートは、航空法施行規則二〇九条の二、一項四号に規定する航空交通管制に関する事項であつて、同法九九条により航空情報として航空機乗組員に提供を要する事項であるため、昭和三七年六月一五日付の航空路誌(A・I・P)に、ジェットルート図およびその飛行方式(管制方式は含まれない)が掲載されて公示された。

そして、管制方式については、昭和四四年一月九日空制第五号による「管制方式基準」が制定せられた。これによれば、ジェットルートは「航空保安無線施設上空相互間を結ぶ高高度管制区における直行経路をいう。」と定義せられている。

(二) ジェットルートの保護空域の意義

(1) 右「管制方式基準」(前記航務課長作成の捜査関係事項照会回答書添付の昭和四四年一月九日付空制第五号、航空保安業務処理規程第五、管制業務処理規程管制方式基準)の、Ⅱ計器飛行管制方式、2管制間隔、(4)横間隔bによれば「IFR機(計器飛行方式により飛行する航空機)に対し、管制区内の既設のジェットルート又はその他の直航経路を承認する場合は、当該飛行経路について次の保護空域を確保するものとする。(a)二四、〇〇〇フィート未満の高度にあつては当該飛行経路の両側に五海里の幅を有する空域。(b)二四、〇〇〇フィート以上の高度にあつては、航空保安無線施設から一〇〇海里の地点までは当該飛行経路の両側8.7海里の幅、それ以遠については更に両側に五度の角度でひろがり当該航空保安無線施設から一五〇海里の点で当該飛行経路の両側に一三海里の幅を有する空域。」と定められ、前記空管第二六八号に記載せられたジェットルートの幅に相当する区域と一致する空域が、管制上確保されるべき保護空域として規定されるに至つている。そして、右「管制方式基準」は、管制間隔の適用として「IFR機に対する管制間隔は、以下に掲げる方法及び基準により設定するものとする。」と規定したうえ、「垂直間隔」及び「縦間隔」とともに右「横間隔」としての保護空域に関する規定を置いているものである。

また、右ジェットルートの保護空域について、運輸省航空局管制調査官である証人永竹庄平は「ジェットルートの保護空域は、前記管制方式基準にその根拠があり、これ以外には保護空域に関する規定は存在しない。」「ジェットルートの保護空域は、管制方式基準の横間隔というところに規定があつて、管制官が二機の航空機を飛行させるようになる場合に、その保護空域内には重ねて航空法九七条の飛行計画の承認をしないことによつて衝突を防止するために設けられたものである。」「保護空域の範囲が8.7マイルとなつたのは、航空保安無線施設の計器の誤差、航空機に搭載する機器の誤差、パイロットの操作上の誤差等を考慮して算出されたものと理解している。」と供述し、また同じく運輸省の管制調査官である証人池田郁雄は「ジェットルートの保護空域は、管制方式基準にだけしかなく、管制間隔の横間隔をいうので、計器飛行方式による航空機を対象としているので、それ以外の航空機は拘束されない。」「ジェットルートの保護空域の範囲は、パイロットとして知つていたほうがいいとは思うが、これは管制を行う側の問題であるから、そこまで知つておく必要はないと思う。」「従つて、管制方式基準の保護空域については航空情報としても提供されていない。」と述べている。さらに、航空幕僚監部運用課飛行支援班員である証人池田博も「ジェットルートの保護空域とは、管制官がIFR機に管制承認を与える場合に横間隔としてとるべき最小限の空域をいい、航空交通管制上とるべき上下の間隔、前後の間隔(縦間隔)とその性質が異るものではない。」「アメリカのジェットルートも同様である。」「VFR機がIFR機に制約されるということはない。」と供述している。

以上、空管第二六八号制定の経緯、管制方式基準の規定の解釈及び各証人の供述を総合すれば、ジェットルートの保護空域は、航空交通管制業務を実施するにあたり、管制官がIFR機に対して飛行計画の承認を与える際に確保すべき横間隔としての空域であると理解するのが相当である。

(2) ところで、右ジェットルートの保護空域について、証人井口清は「民間航空のパイロットは、ジェットルートの保護空域は全く航空路(航空法三七条、一定の航空保安無線施設を結ぶ線の両側五マイル((約九キロメートル))の幅を有する飛行経路)と同じように、ジェットルートに常設された幅であると理解し、管制承認を受けてジェットルートを計器飛行方式により飛行する航空機は、右保護空域を他のすべての航空機に対して専有している。」「民間航空の立場からいえば、右保護空域内に他機が進入してくることはあり得ないと考えている。」と供述し、証人山下憲一、同後藤安二もジェットルートの幅が8.7マイルであると考えるのがパイロット一般の認識である旨供述している。

しかしながら、ジェットルートの保護空域は、前述したとおり、元来、管制業務実施の必要上設けられた性質のものであるうえ、右保護空域の定めのある管制方式基準は、航空管制官が、航空管制業務を実施するうえで準拠すべき諸規定を定めたものであり、従つて、前記のとおりジェットルートの経路及び名称は、航空情報として公示されているが、管制方式基準に定めるジェットルートの保護空域は、航空情報として公示されていないところであり、また、航空情報におけるジェットルート自体の表示は、いずれも直線による表示であつて、航空路が幅をもつて表示されているのと異つている。加うるに、同じく民間航空のパイロットとしての経験の長い証人井上卓三及び証人佐竹仁は、いずれも、保護空域なる名称あるいは保護空域の幅が8.7マイルであることについての知識はなかつた旨供述し、航空幕僚監部教育課飛行班員である証人石塚勲も、同様の供述をしている。

以上の事実に鑑みれば、証人井口清らの前記供述は直ちにこれを採用することはできない。

(三) 保護空域への進入及び訓練回避の義務

以上のとおりであるから、後述する如く、航空機の運行が頻繁なジェットルートに接近してその近傍で飛行訓練をすることは、同ルートを航行する航空機と接触する等の危険があるため、条理上許されないことは当然であるにしても、その範囲としてジェットルートの保護空域を適用しようとするのは、保護空域が、前記の如く、管制の立場から設定せられた範囲であつて、その目的、性質を異にするものである以上、無理のあるところであつて、正当な見解とはいい難い。従つて、本件において、被告人らが右保護空域内に侵入し訓練を続けたということだけでは、直ちに過失犯を構成すべき注意義務違反があつたものとすることはできない。

3松島派遣隊における飛行制限空域とその進入及び訓練回避義務

(一) 松島派遣隊における飛行制限空域の意義

松島派遣隊飛行訓練準則一五条二項では「飛行制限空域(別紙第三)内での飛行訓練(航法、SFO((模擬緊急着陸))、計器出発、進入を除く。)はやむを得ない場合を除き、実施しないものとする。」と規定し、同準則別紙第三において、(A)航空路A―7の一〇、〇〇〇フィートから一五、〇〇〇フィート及び二五、〇〇〇フィートから三一、〇〇〇フィート、(B)バンダイルート、ジェットルートJ11Lの両側五マイル内の二五、〇〇〇フィートから三一、〇〇〇フィート、(C)航空路R―19(大子・HADDOCK)二八、〇〇〇フィート以上、(D)東経一四〇度四五分線(北緯三六度四六分から南)、大子、R―19(ウエスト・バンド)で囲まれる空域をいずれも飛行制限空域としている。

ところで、現行の航空諸法規上、有視界飛行方式により飛行する航空機に対し、右松島派遣隊飛行訓練準則に定めるような空域を、飛行禁止又は制限空域とした規定は存しない。この意味において、右準則の飛行制限空域の規定は、松島派遣隊において自主的に設けた制限規定である。従つて、単に右準則の規定があるからという形式的理由のみによつては、直ちにこれに従うべき法的な注意義務が存在するということができないにしても、右規定は、その根拠として、以下に考察するような実質的理由を具備するものと認められるのであるから、結局右規定の遵守は、条理上要請されるところの法的注意義務の履行にあたると解し得るのである。

(二) ジェットルート及びその近傍における飛行制限

(1) ジェットルートは、前記2、(1)で検討したとおり、高高度管制区において、航空保安無線施設上空相互間を直線で結んだ経路であつて、計器飛行方式による航空機の飛行が予定されている経路ということができる。証人永竹庄平は「高高度管制区を計器飛行方式により飛行する航空機は、ジェットルート以外の直航経路を飛行することは極めてまれであつて、ほとんどがジェットルートを飛行している。」と供述し、証人井口清も「民間定期航空機が、高高度管制区を飛行する場合に、ジェットルート以外の飛行計画は承認されない。」と供述している。加うるに、前記空管第二六八号等によるジェットルート設定の趣旨に照らしても、計器飛行方式によつて飛行する大型ジェット機は、その殆どすべてがジェットルートを利用して飛行していたものと認めることができる。以上のとおり、本件当時の高高度管制区における航空機の運行の実情から考えれば、ジェットルートは、航空路とはその法的根拠を異にし、航空路のように両側五マイル(九キロメートル)の幅を有するものとして規定せられた経路(航空路の指定に関する告示によれば「航空法三七条一項の航空路は、次表の左欄に掲げる地点を順次に結ぶ直線上の任意の点から九キロメートル以内の範囲にあるすべての点を含む区域の直上空域とする。」とされている。)ではないが、民間大型旅客機等の航空機が多数飛行する可能性があるという点に関する限り、実質的に航空路と同様の評価をすることが間違いとはいえない。

(2) 次に、ジェットルートを計器飛行方式により飛行する場合につき、証人山下憲一は、「ジェットルートには保護空域に相当する幅があるが、操縦者としてはできる限りジェットルートの中央を飛行するように努めている。」と供述している。また証人佐竹仁は「ジェットルートの一線上を正確に飛行することは、天候による影響、計器の誤差等から不可能であつて、当然にジェットルートには幅があると考えているが、この幅は航空路と同様五マイル位と考えている。それは偏流修正の最大限が四、五マイルであるからであり、従つてジェットルートの右五マイルの範囲内を航空機が飛行する可能性が高いものと考える。」と述べており、証人池田博も「パイロットはジェットルートを飛行することに努めていると思うが、レーダーで見ると結果的にはジェットルートをはずれているケースも多いと思う。」と供述し、証人井上卓三は「ジェットルートには当然幅があり少くとも低高度と同じだけの五マイルはある。」と供述している。ところで、ジェットルートには管制上の保護空域が確保されることにはなつているが、ルート自体に航空路と同じような幅が規定されていると解することができないことは前述したとおりであり、この点について事故調査委員長の証人山県昌夫も「ジェットルートの線上を航空機が正確に飛行することはできないのであるから、当然幅がなければならないと考えるが、運輸省はこれを告示していないから、正式にはジェットルートの幅は決まつていないと考えざるをえない。」と供述している。これら各証人の供述中には必ずしも的確な認識、表現ではない部分も存在するが、その趣旨とするところは、「ジェットルートを管制承認を受けて飛行する航空機の操縦者は、ジェットルートの直上を飛行するように努めてはいるが、ルート上を常に正確に飛行しうるものでないことも当然であつて、ジェットルートの両側五マイル位までの範囲内を飛行することも通常あり得ることである。」というものと解せられる。そして右各証人はジェットルートにもそのような意味での幅があると供述しているものと理解することができる。

(3) そこで、右のようなジェットルートの飛行頻度について検討すると、全国的には、東京・大阪・福岡間を結ぶジェットルートJ20L、同J30L等が頻繁に航空機が飛行する状況にあつたと認められる<証拠略>が、<証拠>によると、本件当時における札幌航空交通管制区内のジェットルート中においても、その飛行頻度にかなりの差異が認められ、本件ジェットルートJ11Lは、一日に平均約三〇機の定期旅客機等が飛行し、東北地方においてはジェットルートJ15L、J35Lとともに、かなり飛行頻度が高い飛行経路であつて、<証拠>によれば全国的に見ても中程度に位置する飛行頻度であるとされており、これらの各事実に照らせば、J11Lは一般的にも航空機の運航が頻繁なジェットルートに該るといつて間違いではない。

(4) 防衛庁及び航空自衛隊では、常用飛行経路付近における飛行訓練の実施について次のとおり指示している。

イ 航空機の運航に関する達(昭和四五年一月二六日付航空自衛隊達第三号)一九条二項は「航空機は航空路その他常用飛行経路及びその付近においては、特に見張りを厳にして他の航空機への異常接近を予防しなければならない。」と規定し、航空路その他常用飛行経路(航空機の運航が頻繁なジェットルートがこれに含まれることは、証人権代良夫、同寺崎弘等の供述によつても明らかである。)及びその付近を飛行する場合には、その経路を航行する航空機との接触の危険が大きいため、これを防止すべく特に厳重な注意を喚起している。

ロ 「指導の参考について」(昭和三九年六月一六日付空幕察第五五号)では「航空路を横切る場合は、至短距離を直線的に、かつなし得れば航空路最低高度で飛行すること。」と通達している。

ハ 「指導の参考集(四一年度)中の「VMC下における異常接近の防止について」(昭和四三年二月二九日付総隊防電第一五七号)では「最近の航空路等の新設、変更に伴い航空路等及び他飛行場から延伸する直行経路を再確認し、その斜交通過又は直近の平行飛行を極力回避すること」と指示している。

ニ 第一回異常接近防止分科会(昭和四三年一一月八日開催)議事録には、航空自衛隊の担当者が「航空路はなるべく横断しないようにし、横断する時は訓練を中止して飛行するよう指導している。」と発言した旨の記載がみられる。

ホ 航空自衛隊においては、松島派遣隊以外にも、次のとおり航空路あるいはジェットルート及びその付近での訓練飛行を制限する規定を設けている部隊がある。

第一航空団飛行群準則一号(昭和四六年七月一三日付)の三―二―一には「航空路の横断は見張りを特に強化し、航空路に対し、概ね直角に横断し、編隊飛行の場合は疎開隊形及び機動隊形以外の隊形をもつて横断する。」、又、同準則三―二―三には「航空路及びジェットルート近傍では空中戦闘訓練、及び空中操作の課目は実施しない。」と規定している。

第四空団飛行訓練規則二六条には「天候によりやむを得ない場合及び緊急状態にある航空機を除き、飛行制限空域(別図第一)内において、次の各号の飛行を実施してはならない。(1)VFR訓練(航法及びSFOを除く)、(2)VMC ON TOP訓練(航法及び計器進入出発を除く)(3)整備飛行」と規定し、別図第一において前記松島派遣隊と同一の範囲内を飛行制限空域と定めている。

以上の右各通達及び規則等によれば、防衛庁、自衛隊においても、所属の航空機の操縦者に対して、航空路あるいは、ジェットルート及びその付近では特に厳重な見張りを指示するとともに、これに止まらず、同所付近における訓練飛行自体を規制することによつて、航空路及びジェットルートを飛行する航空機との接触を回避すべきであると思考していたものと推量することができる。

(5) ところで、機動隊形による編隊飛行訓練は、前述したとおり、各機が相当広い空間をとつて位置するうえ、旋回時において二番機は上下、左右、前後に移行し、且つそのような旋回を繰り返して行うものであるから、各種編隊飛行のうちでも、その危険性は高度の部類に属するものと認められる。なお、この点について松島派遣隊の操縦教官である木村恵一は検察官に対する昭和四六年八月一一日付供述調書において「フルードフォアの訓練をする場合に、ジェットルートや航空路に近づかないようにすることは、危険性から考えても当然のことで、規則はないがパイロットの常識になつている。」「航法の訓練の時にはジェットルートや航空略を使つて訓練をすることはあるが、編隊訓練その他の訓練は危険なので行うべきではないと思う。」と供述している。もとより、ジェットルートに関する飛行制限空域内で、フルードフォア訓練を実施することを是認する旨の供述をしている証人は存しない。

(6) また、民間機のパイロットである<証拠>も、「通常VFR機は、自己の責任においてジェットルートの五マイルの範囲内には入らない。入るときは十分安全を期して入るようにと習つている。」「できるだけ必要がない限りは近寄らないし、もし、そこを横切らなければならない場合は、十分に安全を期して飛ぶべきだと理解している。この点は、航空路もジェットルートも同じである。」と述べている。

(7) 以上認定の各事実を総合して判断すると、航空機の操縦者が、有視界飛行方式によりジェットルート及びその付近を飛行するについて、航空諸法規上明文をもつてこれを制限する規定こそ存しないが、航空機が頻繁なジェットルート及びその付近の、少なくともジェットルートの両側五マイルの範囲内については、同ルートを飛行する航空機との接触の危険性が高いものと一般にも認識されているところであり、ましてや、右範囲内において機動隊形の編隊飛行訓練を実施することなどは、条理上当然許さるべきでないと解するに十分である。

(三) 本件における右飛行制限義務違反の存否

前記第三の航跡の項で認定した事実によると、本件において、被告人らは、機動隊形の飛行訓練を実施しつつジェットルートJ11Lに接近し、接触直前のころには、同ルートの両側五マイルの範囲内に進入して機動隊形の訓練飛行を行つた時期があるのではないかとの疑が存在する。しかしながら市川機と全日空機との接触地点の認定が証拠上前記の程度に止まらざるを得ないものである以上、これに先立つて被告人らが、右ルートの両側五マイルの範囲内に進入したものと断定することもまた可能とはいえず、また、たとえ被告人らが右範囲内に侵入したものとしても、その侵入時期、侵入位置、侵入の態様、程度等の具体的事実関係及びこれを基にした本件結果との因果関係を確定するに足る事実の立証がないから、結局被告人らに対し、本件過失犯におけるこの点についての注意義務違反を問うわけにはいかない。

三見張り義務について

1本件飛行における見張りの必要性

(一) 飛行一般についての見張りの必要性

航空法施行規則には、航空機操縦者の見張りについて具体的に定めた規定は存しないが、航空法八三条本文は「航空機は他の航空機又は船舶との衝突を予防し、並びに飛行場における航空機の離陸及び着陸の安全を確保するため、運輸省令で定める進路、経路、速度その他の航行の方法に従い航行しなければならない。」と規定し、その他同法あるいは同法施行規則等において、航空機の航行の安全を計るため各種の基本的規定を設けており、これらの規定は、航空機操縦者が航空機の運行に際し、その安全確保のため十分な見張りをなすことを当然の前提としているものと解しうるところである。また、同法九四条では「航空機は有視界気象状態においては、計器避行を行つてはならない。」と規定しており、これは、およそ航空機操縦者は、有視界気象状態(航空法施行規則五条の定める視界上良好な気象状態)下では、その飛行方式(計器飛行方式か有視界飛行方式か)の如何をとわず、周囲に対する見張りを実施して、飛行の安全を確保する必要があることを間接的に規定したものと解することができる。

そして、現実的にも、このような見張りの必要性については本件事故以前に漸く増加の傾向を見せていた航空機間の衝突あるいは異常接近の事態に際しても、関係機関においてその都度これが強調されて来たところであつて、昭和四三年一一月ころには、運輸省内の航空交通管制運営懇談会に異常接近防止分料会が設置され、本件事故前までに四回の会議を重ね、民間航空機、自衛隊機及び米軍機等日本上空を飛行する関係各機関が相互に情報を交換するほか、特別管制空域の設定、訓練試験飛行空域の分離などの諸施策が検討されるとともに、未だこれらが具体化されない現状においてはパイロットの注視義務の徹底を計る必要があることが確認されていたものである。

一方、防衛庁及び航空自衛隊においても、再三にわたり異常接近防止に関する通達を発して、自衛隊機の訓練飛行に際し、訓練空域の厳守等のほか、特に見張りの強化を命じていた。例えば空幕発第一二七号通達(38.12.19)には「最近の空中接触の事故の例は……判断不良および見張り不良に基づく事故がその大半を占めることを示している。」と、空幕察第五五号通達(39.6.16)には「最近……航空機の増加にかんがみVMC下の訓練機による異常接近または空中衝突を防止するため、操縦者は見張りを厳にするとともに……」と、空幕運電第一二二号通達(41.3.7)には「飛行安全のため次の事項につき必要な措置を実施されたい。1訓練空域の厳守、2見張りの実施、3他機等の間隔を十分にとり他機の操縦者等に危惧の念を持たせないこと。」と、空幕電第一九号通達(43.2.20)には「VMC下の飛行においては、見張りを厳重にし、異常接近の防止につとめられたい。」と、中空防第二三〇号通達(45.4.21)には「大型機との異常接近については……依然としてこの種事例が発生しているので……操縦者の見張りの確実な実施……」と、それぞれ指令を発している。同時に、各部隊および隊員に対しては、これらの通達類その他解説等を掲載した「飛行と安全」「指導の参考集」等の資料を定期的に配布して、見張りの重要性等の周知徹底を期していた。例えば、飛行と安全一七八号には「見張りこそ空中衝突のカギ」と題する文章が、同一七三号には「目視による空中衝突防止」と題する文章、及び「衝突は心のゆるみ目のゆるみ」「よく見れば予期せぬ所に航空機」等の標語が掲載されている事実が認められる。

また、被告人らの所属していた松島派遣隊においても、右通達類の趣旨に基づき、同派遣隊飛行訓練準則一五条四項に「飛行訓練間は見張りを厳重にし、他の航空機への異常接近を防止しなければならない。」との規定を設け、これを隊員に対して講義するとともに、随時見張りの必要性について指示する等の措置をとつていた。

勿論高高度における視認が容易ではなく、これのみによつて事故防止をはかることが十分でないことは、後述するとおりであるが、だからといつて操縦士の見張り義務が否定される筋合のものではない。

(二) 本件の飛行状況下における見張りの必要性

およそ飛行する以上見張りが要求されることは当然の事理であり、特に近時の航空状勢のもとにおいてはその必要性が大であることは前項に述べたとおりであるが、本件被告人らの飛行のように、有視界飛行方式による機動隊形の訓練飛行を、臨時に設定された「盛岡」空域(前出第三、二、1の記述を参照)で実施する場合には、他の航空機との異常接近や衝突を防止するため、教官、訓練生ともに一段と見張りを厳重に行い、早期に他機を視認する必要があつたものといわなければならない。その理由は以下のとおりである。

(1) <証拠>によると、本件当時におけるジェットルートJ11Lに関する航空機の利用状況は、一日に平均約三〇機が、日中においては一時間に三、四機程度の割合で航行し、千歳・東京間の民間ジェット旅客機南行便の主要ルートとして二六、〇〇〇、二八、〇〇〇及び三一、〇〇〇フィートの各高度が使用され、その他不定期便が一日に約五機程度飛行していたことが認められる。右のような飛行頻度に照らせば、右ジェットルートJ11Lは、松島基地の局地飛行空域内においては、ジェットルートJ15L及びJ35L(いずれも東京・千歳間民間旅客機北行便の主要ルート)とともに、かなり飛行頻度が高い飛行経路であつたといわなければならない。それ故にこそ被告人らの所属する松島派遣隊においても、その飛行訓練準則一五条二項において「飛行制限空域(J11Lの両側5NM内の二五、〇〇〇フィートから三一、〇〇〇フィートまで)内での飛行訓練(航法、SFO、計器出発、進入を除く)は、やむを得ない場合を除き実施しないものとする。」と規定していた(この点についての詳細は前述した)。

ところで、被告人らが当日の主たる訓練科目である機動隊形による編隊飛行訓練を行うべく割合てられた「盛岡」空域は、前記のとおり、当日の朝になつて訓練の必要上臨時に設けられた空域であつて、その空域の東側において、右のような飛行頻度を有するジェットルートJ11Lかなりの距離にわたつて隣接していたものであり、且つ右J11Lから西側五マイルの前記飛行制限空域の西側境界線は、地形上十分明瞭なものであるとはいえない状況にあつた。さらに。「盛岡」空域の具体的な範囲は、前記のとおり必ずしも明確なものではなかつたが、後述のように相当大きな飛行空間を伴う旋回を繰り返すところの機動隊形の飛行訓練を実旋する空域としては、必ずしも十分な広さを有するとはいえないものであつた。

右の各事実よりすれば、本件の如く右「盛岡」空域において、機動隊形の飛行訓練を実施する場合においては、ジェットルートJ11Lに接近し、あるいはこれについての飛行制限空域に進入することによつて、右ジェットルートを航行する航空機との異常接近等を生ずる危険が大であつたといわざるを得ない。

(2) 前記のとおり、防衛庁及び航空自衛隊においては、見張りに関する各種の通達、資料等を発行して見張りの重要性を強調していたが、その中でも航空路やジェットルートなど多数の民間航空機が航行する経路付近を飛行する場合については、次のとおりより厳重な見張りを実施するよう指示していた。即ち、航空自衛隊における航空機の運航につき必要な基本的事項を規定している航空機の運航に関する達(昭和四五年一月二六日付航空自衛隊達第三号)の一九条二項は「航空機は航空路その他常用飛行経路及びその付近においては、特に見張りを厳にして他の航空機への異常接近を予防しなければならない。」と規定しているほか、航空機の異常接近防止について(通達)(昭和四二年一月二四日付航空幕僚長名義)には「民間ジェット大型機との異常接近が発生した場合、各方面に及ぼす影響は少なくないことに留意し異常接近の絶無を図ること。航空路(G―4、G―5等)、高高度管制区ジェットルート(J―20L、J―30L)及びターミナル管制区域(東京、大阪、浜松―名古屋)を飛行する場合には、次の理由により特に見張りと早期自主回避を適切に実施すること。(1)計器飛行方式による民間ジェット大型機の運航がふくそうしている。(2)これらの民間ジェット大型機は、旅客に与える影響から急激な回避操作が困難であり、かつ回避操作を行つても直ちに方向等の変換となつて表われない。」と指示しており、はやくから民間旅客機等との異常接近等を回避するため、常用飛行経路付近での一層厳重な注意を喚起していた事実が認められる。

そして、本件当時松島派遣隊の飛行隊長であつた証人田中益夫は、前記J11Lの両側五マイルの飛行制限空域付近の空域とそうでない空域を飛行する場合とで見張りの程度に差があるかとの尋問に対し、「飛行制限空域に入らなくても、その付近を飛ぶような場合は、普段より以上に注意して見張りをすべきである。」と供述し、航空幕僚監部運用課飛行支援班長であつた証人権代良夫も「ジェットルートの場合はその中心線より五マイルより少し遠くから右達にいう『常用飛行経路付近』として厳重に見張りをすべきである。」と供述しているところである。

右各事実から明らかなように、右「盛岡」空域内で訓練飛行中、ジェットルートJ11Lに近づくような飛行となる場合には、一段と周囲の見張りに留意すべきであつた。

(3) 機動隊形による二機編隊の訓練飛行は、教官機と訓練機とが、高度二、五〇〇ないし三、五〇〇フィート、左右(横間隔)五、〇〇〇ないし八、〇〇〇フィートの相当広い空間をとつて位置するうえ、旋回時においては三番機は上下、左右に移行し、その旋回半径もバンク角三〇度とした場合はほぼ四ないし五マイルを要し、且つそのような旋回を繰り返し行うものであるから、前記のような飛行頻度を有するジェットルートJ11Lに隣接する比較的狭い「盛岡」空域で、右のような機動隊形の訓練飛行を実施するには、その危険度の高さから、周囲に対しより厳重な注意が要求されると考えるべきことは当然である。

(4) 本件当時、松島派遣隊では、戦闘機操縦課程の訓練生に対する編隊飛行は割当てられた訓練空域内で実施されていた(証人寺崎広等の供述)ところ、その訓練飛行に際しては、他の部隊と同様レーダーによる監視、あるいは、訓練を指導する教官機と別に、見張りを行う航空機を滞空させるなどの方法によつて、付近上空を航行する民間機をはじめ隣接する他の訓練空域で訓練中の自衛隊機等との異常接近を防止する措置は講じられていなかつた(なお、本件事故後緊急対策要綱に基づき、訓練空域のほとんどを海上に移すと共に、訓練飛行中常にレーダーで監視し、また機動隊形訓練においては一番機のほか四番機の位置にも教官がつく態勢がとられるようになつた)。

このことは本件被告人らに割合てられた「盛岡」空域における訓練飛行についても勿論同様であつたのであるから、このような状況下にあつた被告人らとしては、訓練飛行中他機との衝突を防止するためには、もつぱら自らにおいて見張りを厳重に実施するほかなく、且つそれが要請されていたものというべきである。

(5) 有視界気象状態下においては、計器飛行方式により飛行する航空機といえども見張りを怠ることが許されないことは前述したとおりであるが、一般に、計器飛行方式によりジェットルートを飛行している民間ジェット旅客機の操縦者が、有視界飛行方式により飛行する小型ジェット機を早期に発見することは、視角の大きさ等からいつても大型機を視認する以上に困難であるうえ、発見した後においても、機動隊形訓練における訓練機のように、上下左右に大きく移動する航空機の飛行方向を適確に予知することのむずかしさ、更には大型機の場合は機体・重量ともに大きく、回避のための急激な動作をとることが困難であること等を考えると、このような場合には、訓練を実施する航空機の操縦者において、より厳重な見張りによる早期発見と、これによる自主回避をなすことが期待されるところといわねばならない。このことは、<証拠>においても十分窺えるところであつて、前記防衛庁の通達にも「見張りと早期自主回避を適切に実施すること。」として右の趣旨を明記しているところである。勿論、このことは、計器飛行方式によりジェットルートJ11Lを航行する大型民間ジェット旅客機操縦者の見張り義務を軽減させる筋合のものではない。

(三) 被告人両名の見張りの必要性についての認識

被告人両名は、ともに航空機の操縦者として、飛行の場合に一般的に、見張りをすることの重要性を認識していたことは当然であると考えられる。

そして、被告人隈は、本件事故当時、右「盛岡」空域が臨時に設定された空域であり、右空域とジェットルートJ11Lが隣接した位置関係にあることも認識して機動隊形の訓練を指導していた(もつともJ11L自体は盛岡上空付近を通過してしていると考えていた)ものであり、従つて前記各理由により特に厳重な見張りが要請されるものであることも教官として十分了知し、少くとも了知することができ且つこれを了知すべきであつたことは明らかである。

ところで、被告人市川は、機動隊形が前記のようなかなり広範囲の空間を要する飛行形態であるなど機動隊形の概要は、教官から講義を受け、且つ当日午前中にも飛行訓練(月山空域)を受けて了解していたと認められる。ところで、「盛岡」空域、ジェットルートJ11Lあるいは両者の位置関係については、当公判廷において「本件当時『盛岡』空域が臨時に設定された空域とは考えず、自分だけが知らないもので、その位置、範囲も全然わからず、ジェットルートJ11Lはその名称は勿論J11Lが北の方に向つてほぼ盛岡市周辺を通過していることも全く知らなかつた。」と供述している。そして、被告人と同期の訓練生である証人家田豊及び同藤原博美も当公判廷において、ジェットルートJ11Lについては知らなかつた旨供述し、あるいはジェットルートJ11L及びその飛行制限空域等は本件事故後に取得した知識である旨証言している。しかし、同じく被告人市川と同期生である椋本恵士の検察官に対する供述調書によれば同人は「『盛岡』空域といわれても判然とした事は判らず、盛岡付近上空だろうと思うが、どこだとは判然としなかつた。」「盛岡上空付近がジェットルートJ11Lの付近であることは知つていた。」と供述しており、また、他の同期生である工藤順一の検察官に対する昭和四八年七月六日付の供述調書では「松島基地から丁度真北に向つてJ11Lが通つており、その両側五マイルが飛行制限空域になつていることは事故前にも覚えていた記憶がある。それは最初の飛行準備教育の際訓練準則の説明をうけたり、自分なりに航空路図誌で学習し覚えたからだつたと思う。」と述べ、さらに同人は当公判廷において証人として「J11Lの名称は知らなかつたが松島から北の方向にジェットルートがあることは大体記憶があつた。どこを通つているかは記憶がない。」と証言している。被告人市川も検察官に対する昭和四六年八月六日付供述調書においては「盛岡の西側に函館・松島間を結ぶJL(J11L)があり…ことはよく承知していた。『盛岡』空域とは盛岡を含むそれより東側の空域だろうと判断した。」と、同じく同月一一日付供述調書では「盛岡が松島基地のほぼ真北に位置していることは記憶していた。又J11Lは盛岡の西約一〇マイルの地点をほぼ南北に走つているはず……。」とそれぞれ供述している。

右の事実に照らせば、被告人市川が、右の点について全く知らなかつたとする当公判廷における供述は、これをそのまま信用することはできない。むしろ、被告人市川を含む訓練生は、松島派遣隊で、ジェットルートJ11Lに関する飛行制限空域及び細分化された既設の訓練空域の記載がある飛行訓練準則につき講義を受けていること、検察官作成の昭和四六年八月二一日付実況見分調書によると、同被告人らが常に使用していた同派遣隊のブリーフイング・ルーム内にジェットルートJ11Lなどの記入のある「飛行制限空域図」が常時掲示されていたこと等の事実をも合わせ考えると、被告人市川は、本件「盛岡」空域が、ほぼ盛岡付近上空に設定された臨時の空域であり、飛行制限空域となつているジェットルートJ11Lがほぼ盛岡市付近上空を通過している程度のことを知つていたものと認めるに難くないところである。そして、訓練生は、前記各通達類等の講義を受け、指導の参考集、飛行と安全などの資料を閲読し、且つ常に見張りの重要性について指導を受けていたものであるほか、訓練飛行に際してはそのつど個別打合せの際、担当教官から訓練飛行中見張りを厳重に行うよう指示されていた事実が認められるから、被告人市川は、訓練生として、本件機動隊形訓練に際しては、前述の各理由により、見張りを一層厳重に行う必要があつたことを了知し、あるいは少なくともこれを了知することができ且つすべきであつたということができる。

2被告人隈について

(一) 見張りによる接触予見の義務

(1) 見張りの方法及見張るべき範囲

イ 飛行一般における見張りの方法

航空機操縦者の行うべき見張りの方法等については、航空法規上明文の規定はなく、航空自衛隊においてもこの点について直接定めた教範等は存しない。しかし、前述の如く、およそ航空機操縦者が、有視界気象状態の下で、自機の進路前方及びその左右に対し、絶えず目視による見張りを行つてその安全を確認しつつ飛行すべきことは当然であつて、その見張りの具体的な方法、範囲あるいは程度は、航空機の構造(特に操縦席の窓の広狭)、飛行位置(飛行場周辺かあるいは航空路、ジェットルートの付近かなど)、飛行状態(直行、旋回、水平、上昇、下降等)、飛行形態(単機か編隊か、編隊の場合はその種類が例えば基本隊形か、疎開隊形か、あるいは機動隊形か、及び編隊中に訓練生等の未熟者を含むか否かなど)など種々の条件により相応の差違があり、一般に各操縦者は右条件に適応した方法でもつて、それぞれその見張りに努めているものと認められる。

なお、押収してある「訓練科目教育指針「(同押号の三一)において、編隊飛行の要点として、チームワーク及び正しいポジション確保とともに、ルックアラウンドが掲げられており、また<証拠>によれば編隊各機の間で見張りの分担範囲が定められることがある事実が認められるが、これらは、航行の安全を確保するための見張り(アウトサイドウオツチと呼ばれることがある)と無関係のものではないにしても、窮極においては戦闘を目的とした飛行訓練に資すべく定められたものであつて、航行の安全確保のための見張りとは、その性質、方法ならびに範囲を同一にするものとは認め難い。

ロ F―86F戦闘機操縦者の見張りの方法

F―86Fジェット機闘機操縦者の見張りの基本的な方法について、いずれも同機の操縦経験を有する各証人及び被告人隈は、以下のように供述している。

証人寺崎弘は「有視界気象状態においては、航行の安全を確保するため、相互に見張りを行うべきであつて、各機の操縦者としては、無理なく左右に首を廻して見れる範囲を見張れば足りるのであり、この範囲は正確に数字で言い表わし難いが、真横に首を廻すとすればそれより余分なところまで見えることとなる。」と、

証人土橋国宏は「見張りの仕方として基本的な形というものはないが、まず操縦席にすわつて、左右いずれからでもよいが斜め後方からずつと前方及び反対側斜め後方まで、首を上下に振りながら見張りを行い、その後は逆の方向に、やや上方を同じ方法で斜め後方から前方そして反対側の斜め後方へと首を上下に振りながら見張りを行い、これをくり返す方法による。」と、

証人管正昭(第二八回公判)は「通常自己機の飛行して行くまつすぐ前の方向を重点として、大体左右各四五度ないし六〇度の範囲内を見張りしている。」と、

被告人隈は、当公判廷において、「前方(進行方向)の見張りというのは度数で正確にはいえないが、大体左右各六〇度の範囲をいう」と、

それぞれ供述している。

なお、以上に対して、大型民間ジェット旅客機の操縦者である証人佐竹仁は同人の行つている見張りの方法につき「高空において定常飛行を行う場合は、ほぼ前方左右各四五度の範囲を集約的に見張り、出発から定常飛行に移るまで及び定常飛行から着陸のため降下する場合には、前方左右各九〇度の範囲を見張るように努めるが真横を見ることもある。」と供述している。

以上の各供述を総合して考察すると、F―86F等のジェット戦闘機の操縦者としては、航行の安全を確保し他機との接触を予防するための見張りとしては、通常操縦席に着席した状態で、自己の進路前方を中心として、左右に首を回して無理なく見える範囲を繰り返して見張る方法をとつているものと認められ、その首を回して見る範囲を数字をもつて正確に表現することは困難であり、且つ各操縦者、飛行態様あるいは飛行位置によつても自ら若干の相違があると考えられるが、概ね左右各六〇度であると認定しうるところである。もつとも、操縦者が頭部を旋回して左右各六〇度の位置に中心視線を持つて行けば、更にこれよりも相当の範囲がその視野に含まれる(黒田鑑定書によれば、中心視線から約一〇度が比較的見え易い範囲、約三〇度がやや見易い範囲であるとされている)のであるから、右の方法で見張を実施した場合に、操縦者の視認し得る範囲は左右各六〇度に限定されるものではないと認定できる。その意味では現実に見張られている範囲は、進行方向の左右各六〇度余りであるといつて不適当ではない。

ハ F―86F戦闘操操縦者の見張るべき範囲

同戦闘機の操縦者としては、前記のとおり、進行方向の左右無理なく見える範囲(左右各六〇度余り)の見張りを行つているのが通常であり、且つ相手機も通常の見張りを行つていることを前提とする以上は、右の範囲の見張りを実施していれば、一般に飛行における接触等の事故を回避しうるものと認めることができる。本件のように、ジェットルートの近辺において大きな旋回を伴う機動隊形の飛行訓練を実施する場合においては、通常より以上に見張りに対する注意力の配分を大にして厳密な見張りをするよう努める必要があることは、前述したとおりであるが、機動隊形であつても曲技飛行等におけるほど急激な動作を伴うものではないこと等をも併せ考えると、見張りをなすべき範囲に関する限り、本件機動隊形訓練のような場合でも、前記の進行方向左右各六〇度余りの範囲であつては、接触回避のために、不十分なものであると認めるべき特段の事情が存在するとまでは認定できない。

してみれば、本件機動隊形訓練において、航行の安全を期するため、一番機及び三番機が基本的に見張るべき範囲は、特別の事態が発生したりしない限り、その直接飛行期間、旋回飛行期間のいずれにおいても、それぞれの機の進行方向の左右、無理なく見える範囲(左右各六〇度余り)であるというべきである。なお、訓練生であることから生ずる問題については、被告人市川に関する該当箇所であらためて説明する。

ニ 機動隊形訓練における教官の見張り方法

本件の場合のように、一番機の位置にある教官機と三番機の位置にある訓練機の二機編隊により、機動隊形の飛行訓練を行う場合における教官機の見張りの方法について考察する。

松島派遺隊において被告人市川ら戦闘機操縦課程の訓練生の指導にあたつていた証人佐伯裕章、同土橋国宏、同松井滋明、同管正昭及び同派遣隊長であつた証人寺崎弘、同派遣隊飛行隊長であつた証人田中益夫は、その理由とするところは後記のとおり若干相違するが、いずれも、機動隊形における訓練飛行においては、三番機の位置にある訓練機に搭乗する訓練生としては自らは十分な見張りを行うことができず、また、教官としてもこれを期待していないので、この場合は、一番機に搭乗する教官が、常に訓練機を含む編隊全体の見張りをなすことによつて、訓練機の見張りの不十分を補完することがその任務とされている旨供述している。

そして、二機編隊の機動隊形による訓練飛行中における教官の操縦操作や見張りの具体的状況については、証人吉田光、同管正昭の証言、被告人隈の当公判廷における供述、同被告人の検察官に対する昭和四六年八月一三日付供述調書、黒田鑑定書及び同人の尋問調書によれば、次のとおりであると認められる。

教官は、前記のとおり、訓練機を含む編隊全体の航行の安全を確保するため絶えず見張りを行うとともに、訓練機の行動を監視しつつ頻繁に無線で訓練生に指示を与えながら、訓練機が正確な位置関係を保持するよう誘導する必要がある。

そして、機動隊形におけるいわゆる基本位置を保ちながら教官機及び訓練機が直線飛行を継続している間は、教官は自機の前方及び左右に首を回して無理なく見える範囲(進行方向の左右各六〇度余り)を見張るのは勿論、同時に訓練生が正確な基本位置を保持しているかの監視を行うと共に、編隊全体の航行安全のための見張りを継続しつつ飛行を続ける。右基本位置から旋回飛行する場合には、教官は、まず旋回に入る直前に、編隊が旋回して行く方向の見張りを行い、その安全を確認したうえ旋回操作を開始し、次に訓練機が教官機に従つて旋回を開始したかどうかを監視する。その際、訓練生の旋回操作等が不適確なため危険な場合には、旋回を中止するように指示を与えて直線飛行に戻らせ、訓練生が旋回を続けても安全であると判断した場合にはそのまま旋回に移行させる。旋回に入つてから以後においては、いわゆる内側旋回(前出第三、二、3(一)の説明参照)の場合には、訓練機は教官機の内側後方上空からほぼ教官機の真上を交差して外側に出るようにして旋回飛行するので、交差する際にも教官機から訓練機を見上げる形となつて、教官は常時訓練機の監視が可能である。従つて訓練機の監視を継続しながら、編隊全体の進行方向に対する見張りを実施する。次に、いわゆる外側旋回(前同所の説明参照)の場合には、訓練機は教官機の外側後方上空から教官機の後方を交差して内側に移行するようにして旋回飛行するので、教官は首を斜め後方に回して訓練機が教官機の後方にかくれるまで監視を継続しながら、同時に編隊全体の進行方向の安全の見張りを行う。なお、この場合において、教官が訓練機を斜め後方に監視することができるのは、F―86F機の構造及び装備品等による制限のため、斜後方約一五〇度の範囲が限度である。その後、教官は訓練機が自機後方で旋回を継続している間(この間の時間は証人吉田は六、七秒と、同管は一五から二〇秒と各供述している。)は、自機の計器類の点検等を実施しながら、自機の反対側に出現が予測される訓練機を監視すべく待ち受けつつ、訓練機が出現後旋回して行く方向及び自機の進行方向の前方左右に対する見張りを行う。そして、訓練機が反対側後方約一五〇度に出現してからは訓練機の監視が可能となるので、前述の方法によつて見張りを実施する。

ホ 機動隊形訓練における教官の見張るべき範囲

教官は、機動隊形訓練において、現実には前記ニで述べたような見張りの方法をとつている。これによれば、教官機から訓練機の監視が可能な限りにおいては、訓練機をも含めた編隊全体の前方を見ることもまた可能であると認められる。しかしながら、だからといつて、戦闘機操縦の訓練目的達成のための見張りとしてではなく、航行安全のための見張り(両者の相違については前述したところを参照)をなすべき義務が、右の可能な範囲のすべてにわたつて教官に対し要求されるとまで考えることはできない。教官としては、その職務上、訓練生の個人的能力の如何にかかわらず、安全確保のため、三番機の位置にある訓練生が本来見張るべき範囲を重ねて見張るべき義務が課せられているのであるから、機動隊形の三番機が安全確保のため見張るべき範囲が、前記ハで述べたとおり、直線及び旋回の期間を通じ原則としてその進行方向の左右無理なく見える範囲(左右各六〇度余り)である以上、教官が重ねて見張るべき右範囲も、これと同じく、訓練機の進行方向左右各六〇度余りであることは、当然の帰結である。なお、前記のように、外側旋回の場合訓練機が交差する際に一時教官機から訓練機を監視できないときがあるが、その際は訓練機が見えなくなる直前までその前方を見張ると共に、見えなくなつても、その期間は短く且つ出現する方向は予測がつくのであるから、その期間中といえども、出現後進行する方向の安全の見張りを継続すべきである。

そして、教官としては、自機の進行方向の左右無理なく見える範囲(左右各六〇度余り)を見張るべきことは勿論である。してみれば、結局、右二機編隊による機動隊形訓練において、一番機を操縦する教官として、編隊の航行安全のための見張り義務が存在する範囲は、自機の進行方向左右無理なく見える範囲(左右各六〇度余り)と、訓練機の進行方向左右各六〇度余りの範囲であるということができる。

ところで、弁護人は機動隊形訓練を行う場合でも、一番機が自機の前方左右の無理なく見える範囲(左右各約六〇度)の見張りを尽せば、それだけで編隊全体の航行の安全の確保として欠けるところはない旨主張する。証人管正昭及び同寺崎弘もこの点につき、一番機が自機の前方左右の見張りを十分に尽すことにより当然に三番機の位置にある航空機の航行の安全も確保される旨証言し、被告人隈も当公判廷において同趣旨の供述をしている。その理由とするところは、機動隊形により飛行する場合は、編隊全体が高速度で刻々進行するのであつて、それに従つて一番機が前記の範囲内を繰り返し見張つていれば、その範囲内に三番機が将来進行して行く方向も含まれることになるから、一番機が自機の進行方向を見張ることは、同時に事前に三番機の進行方向をも見張ることになるからであるとしている。

しかしながら、高速度で進行して行く編隊の前方空間の状況は時々刻々変化しつつあるのであるから、一番機の事前の見張りにより、三番機の進行方向の安全が十分に確保されるものであるかは疑問であるばかりでなく、仮に水平直線飛行の場合はそれでもつてある程度見張りの目的を達成しうるものであるとしても、編隊が旋回に移行し旋回を継続している場合は、一番機と三番機の航跡はかなり異なるのであるから、右方法による見張りのみで十分であるとはいえない。このことは、本件においても、事故調査報告書添付図表第15図によつて明らかなように、接触三〇秒前以降は、訓練機は教官機の右方一一六度より更に右方に位置しており、教官機の左右無理なく見える範囲である左右各六〇度余りの範囲に属していないのであるから、たとえそれより更に以前には訓練機が右六〇度余りの範囲に属していたものとしても、超高速度で進行している航空機において、三〇秒以上もの間の見張りが事前の見張りによつて代替し得るという如き考えは、到底賛同できないものである。

(2) 見張りの可能性

前掲の松島派遣隊で戦闘機操縦課程の訓練生を指導していた教官らの各証言及び被告人隈の当公判廷における供述によつて認定しうる事実によれば、機動隊形の訓練飛行を指導する教官は、高高度において高速度で飛行する編隊につき、それが安全且つ効率的に訓練目的を達成すべき責任を負担し、訓練飛行中終始極めて緊張した状態に置かれているものと認められ、特に、当日の主たる訓練課目である機動隊形の飛行を実施している際は、技能未熟な訓練生が機動隊形の正しい関係位置を保持しつつ適確な旋回を行うように監視し、且つ頻繁に無線で指示をするとともに、一方では、編隊の飛行位置、飛行方向を確認し、あるいは計器類等の点検を行うなど、厳格かつ機敏な動作が要求されることが認められる。そして、右のような訓練機の監視及び操縦操作等のほかに、より重要なこととして、航行の安全を確保するために常に見張りを厳重に実施することが要求されるのであるから、所定の訓練課程(前記訓練課程の項の説明を参照)を履修した教官である操縦士にとつても、右訓練飛行の指導は、かなり高度の負担を伴う業務であるということができる。

しかしながら、本件当時戦闘機訓練課程の教官に対しては、右の任務が通常のこととして課せられていたもので、特段危険なものとは考えられていなかつたのである。そして、本件のように臨時に設定された「盛岡」空域で機動隊形訓練を実施する場合は、教官としては、自機及び訓練機の各進行方向の前記認定の範囲につき、より一層の注意力の配分をもつて見張りに当る必要があり、且つそのことは前記認定のとおり、教官として知りまたは知り得べき事柄であつたのであるから、見張りの特段の重要性についてもあらかじめ意識して指導にあたつていたものというべきである。また教官が前記のように訓練機の監視及び各種操作にかなりの負担を負うものとしても、前記範囲の見張りは、前記認定のとおり訓練機の監視が可能であることを前提とし、その範囲内において、ほぼこれと同時に行うことが可能なものである。以上のことからしても、本件の事情の下で、一番機を操縦する立場に置かれた教官が、前記の方法により航行の安全のための見張りをなしえなかつたものとは到底認められない。

(3) 視認及び接触予見の可能性

被告人隈が、前記認定の方法により見張りを尽していたならば、さきに認定した全日空機と被告人両機との相対飛行経路(ここで前記認定の相対的飛行経路を使用するのは、それが厳密な意味での飛行経路ではなく、自ずから多少の誤差を免れないとしても、以下に検討する視認の可否の結論に影響を及ぼすものではないと認められるからである。)を飛行中、市川機と全日空機との接触前に全日空機を視認し、同機と市川機との接触を予見することができたかどうかについて以下検討する。

イ 視認の可能性

まず視認の可能性について考察する。ところで視認の可能性を論ずるうえの基本的立場として、事故調査報告書及び黒田鑑定書はそれぞれ次のように述べている。

事故調査報告書では「視界内にある物体の視認の可否は、視角の大きさ、物体の明るさ、物体の明るさと背景の明るさのコントラスト、対象物の存在の予測の有無の、注意力等が関与するが、この事故の場合には、主として視角の大きさによると認められる。」としている。

黒田鑑定書では「視認に影響する内的、外的諸因子は非常に多く、これらの要因の相互関連状態は著しく複雑で、外的要因のみの検討の結果を基にして視認可能性を単純に推定することは困難であり、諸因子のうち、視程、目標の大きさ(視角)、コントラスト、視線の動き(中心視及び中心視との関連性)及び視力は視認性を論ずる上の必須条件であり、このほかに、異常接近可能性等についての心理的構えの問題、飛行経験、接近機に関する情報の正確さ、色彩、実施している業務における視線固定度、視線移動速度、調節力、グレァ(眩光)等多くの条件につき視認を問題とする時点毎に詳細に検討しなければならず、これらの総合的組合せの上に立つて慎重に判断する必要がある。」としている。

右のいずれの見解においても、視認に影響を及ぼす要素は多岐にわたるとしているが、そのうちでも視角の大さが必須の条件の一つであるとする点においては一致するところである。そこで、右視角の点については後に詳述するとして、まず本件の場合に右以外の視認の各要素が、被告人隈の視認の可否につきどの程度の影響を及ぼしているかについて検討する。

ⅰ 視角以外の視認の諸要素について

(ⅰ) 視程

事故調査報告書は「接触位置周辺の気象状況は、雲高三、〇〇〇フィート(九一〇メートル)、雲量八分の一、視程一〇キロメートル以上で有視界気象状態であり、空中接触位置付近の高度における気象は、雲がまつたくない晴天で、視程も一〇キロメートル以上であつた。」としている。この点に関しては、盛岡地方気象台長、仙台管区気象台長、秋田地方気象台長作成の各捜査関係事項照会回答書及び本件当日事故発生時刻ころ東北地方上空を飛行していた航空機の各操縦者の供述調書及び被告人らの検察官に対する各供述調書によつても、ほぼ同様な気象状況であつたことが認められ、特に事故発生直前である同日午後一時一九分ころジェットルートJ11Lを千歳から東京に向けて高度二八、〇〇〇フィートで飛行した全日空五六便操縦士である松本洋彦の検察官に対する供述調書によれば「雫石町上空を通過した時刻頃の気象状況は、四〇ノット位の西風で、雲は眼下の山の頂上付近とかその周囲に小さな積雲がぽつぽつあつた程度で、一番高い雲でも一〇、〇〇〇フィートまではなかつたと思う。とにかく機の周辺には雲など全くなく、視程は無制限といえる。つまり何キロなどと距離で測ることは出来ず、眼の届く限りはきれいに見えた。飛行するについての気象条件としては最高であつた。」と供述しているところである。以上の事実によれば、本件事故発生当時、前記認定の接触位置付近である雫石町上空周辺の視程は極めて良好であつて、これによつて視認が困難になるような状況にはなかつたことが認められる。

(ⅱ) コントラント

事故調査報告書では、コントラストが物体の視認の可否に関与する要件であるとはしているものの、本件の場合においてこの点がどのように影響したかについて詳述するところはないが、本件事故発生当時における大陽は少なくとも当該機相互の視認を妨げない位置にあつたことを指摘している。

一方、黒田鑑定書では「コントラストは視認を論ずるうえで重要な因子の一つであり、航空機の翼下面の暗い部分が明るい胴体反射面と同一の視認性を保つためには約6.0×102フット・ランバートの背景において約二倍の目標の大きさ(視角)を要する。」としている。しかし、右指摘及び同人の尋問調書によつて明らかな如く、コントラストが視認に影響を及ぼしても、目標の大きな(視角)が大きくなければ、その影響も少なくなると認められるので、本件の場合においては、後記認定のとおり、視認可能性が問題となる時点における全日空機の視角は、空中における視認可能な視角の大きさに比較して極めて大きいのであるから、たとえ、全日空機の暗い翼下面を見上げる状態に置かれたとしても、そのことが、視認の可否に影響を及ぼしたものとは考えられない。

(ⅲ) 対象物の存在の予測の有無(心理的構え)

この点については、前記見張りの必要性の項で指摘したとおり、被告人隈は教官として本件飛行訓練当時「盛岡」訓練空域とジェットルートJ11Lとの位置関係についてはこれを認識していたと認められるものであり、従つて、訓練中に右ルートを飛行する他機に接近する危険をも予測し、あるいは予測しうべき状況にあつたものである。もつとも右予測は航空機の飛行する時刻、位置、方向等を厳密に認識していたものではなく、ある程度漠然としたものではあつたにせよ、常日頃見張りの重要性を強調され、これを指導する立場にあつたことも合わせ考えると、心理的構えの点については、被告人隈の場合は、むしろこれを積極に認定しうるものと考えられ、視認の可能性を増す要素とさえいうことができる。

(ⅳ) 視線移動速度、視線運動軌跡

事故調査報告書は「航空機操縦者は機外に対する見張りのみならず計器等に注意を配分しなければならないことが視認に影響していたものと推定されるが、この点を明確にできない」と記述している。黒田鑑定書は「目標の大きさ(視角)、コントラストが良好であつても、その上を通過する視線移動速度が五〇度/秒を越える場合、もしくは視線運動軌跡から上下に三〇度以上離れている目標物は見落される可能性が大である。」と指摘している。そして、前記認定のとおり、本件機動隊形の訓練飛行中における教官には、見張りの外に、操縦操作、計器類の点検及び時々刻々移動する訓練機の監視、誘導等相当繁忙な行動が要求されるため、教官の視線は、前記機動隊形訓練の場合における教官の見張り方法の項で記述したような軌跡の上を、かなり速い速度で常に移動していると認められる。しかし、この点についても、視角が視認するうえにおいて十分な大きさである以上は、その影響もそれだけ減少するものと考えられること、また、前記見張りの方法の項で述べたように、教官の見張りは終始くり返して行われるものであること、並びにそのような見張りの方法が教官に対して通常の任務として課せられていたもので、特に見張り困難による危険があるとは考えられていなかつたこと等をあわせ考慮すれば、本件の場合に視線移動速度、視線運動軌跡が、全日空機に対する視認を困難ならしめる程重要な要素となつたとまでは認められない。

(ⅴ) 視力

被告人隈の視力は遠距離視力が左右とも1.2で近距離視力は右1.1、左1.0であつて、視認に困難を生ずるものではない。

また、その他本件当時の被告人隈の身体状況に異常があつたとも認められない。なお、事故調査報告書では「高高度においては高空近視等により人間の視認能力が減少することが視認の可否に関与していたものと推定されるが、明確に出来ない。」としているが、黒田鑑定書も、この点につき、視認に影響しうるが結局は視認の障害とはなり得ないものとしていることからしても、この点が特に本件において全日空機に対する視認を困難ならしめる要素となつたとは考えられない。

(ⅵ) その他の要素

以上の各要素のほか、前出の飛行経験、調節力、グレア等の要素については、本件の事実関係に照らせば、これらが特に被告人隈の視認を困難ならしめる要素となつたとは認められない。

以上検討してきた如く、視認に関する視角の大きさ以外の諸要素は、いずれも本件事故においては、被告人隈の視認の可否に影響を及ぼすべき特段の事情となつたとまでは認められないから、結局本件事故における被告人隈の全日空機に対する視認可能性を、視角の大きさを基準として論ずることが不合理なものであるとは考えられない。かくして、事故調査報告書の「この事故の場合には、主として視角の大きさによると認められる。」との記述も首肯し得るところとなる。

そこで、以下視角の大きさを基準として被告人隈の視認可能性につき考察を進める。

ⅱ 視角の大きさについて

事故調査報告書によると「一般的に視認に関与する要件が理想的な場合、直視して発見できる最小の視角の大きさは0.7分(高さの視角)×0.7(横の視角)=0.5分2であるが、飛行中の航空機の乗務員室にあつては視程が良好な場合であつても少なくとも0.5分2の四倍(二分2)の大きさが必要であるとされている。」としている。一方、黒田鑑定書及び同人の証言によると、事故調査報告書が示す右数値は一般的には相当であるとしつつも、飛行中という動的環境下における通常の発見能力を推定する手掛りとして、防衛庁航空医学実験隊が実施した各調査結果を掲げ、これによると、接近機についての情報がある場合に大型機(全日空機はこれに該当する。)を発見し易くなる視角は六ないし八分(約一〇海里)で、接近機についての情報がない場合に大型機を発見し易くなる視角は一三分ないし一七分(約五海里)であるとしている。

そこで、前記認定した接触直前の全日空機、自衛隊機の相対飛行経路を飛行中の被告人隈機からみた全日空機の視角の大きさ、位置及び距離をみると以下のとおりである。

(ⅰ) 事故調査報告書によれば、接触約三〇秒前の時点においては、全日空機は、教官機の右方七八度、上方一〇度の距離4.3キロメートルの位置にあつて、視角は八一分2であり、接触約二〇秒前の時点においては右方一〇六度、下方一一度の距離2.5キロメートルの位置にあつて、視角は一八〇分2であり、接触約一四秒前の時点においては右方一三〇度、上方三度の距離1.8キロメートルの位置にあつて、視角五〇〇分2であつたとされている。そして、右接触約一四秒前ころには訓練機は教官機の右方一四九度、上方一九度の距離1.5キロメートルの位置にあつて、被告人隈から同機を追従監視可能な範囲である前記一五〇度の限界位置付近にあり、右時刻直後以降は、被告人隈は自機の進行方向及び訓練機の出現される左一五〇度付近に視線を転ずるため、全日空機はその視界内に入らないことになる。なお、事故調査報告書は、接触約三〇秒前より以前の全日空機の視角の大きさ、位置等については参考としうる数値を掲げていないが、その三分前からの相対位置関係に関する資料によると、直線飛行に入つた接触約四四秒前以降においては、全日空機は、教官機からみて右上方の、約三〇秒前におけるそれとそれ程大きく相違しない位置にあつたものと推認するに難くない。

(ⅱ) 次に黒田鑑定書によれば、右接触約四四秒前の時点において全日空機は、教官機の右方66.6度上方5.5度(高度差約762.2メートル、以下高度差はいずれの時点においても同じ)の距離約7.937キロメートルの位置にあつて、胴体視角13.54分、翼視角9.06分であり、接触約三〇秒前の時点においては右方74.8度、上方9.9度の距離約4.437キロメートルの位置にあつて胴体視角23.47分、翼視角17.34分であり、接触約二二秒前の時点で右方93.6度、上方15.7度の距離約2.816キロメートルの位置にあつて、胴体視角33.44分、翼視角31.28分であるとされている。そして右接触約二二秒前ころには訓練機は教官機の右方150.0度、上方35.4度の距離約1.489キロメートルの位置にあつて、被告人隈から追従監視可能な一五〇度の限界位置に達し、従つて右時刻以降は全日空機は被告人隈の視界の外にあるとされている。

なお、以上のように、事故調査報告書と黒田鑑定書とでは、その数値において若干の差違が認められるが、この点について証人黒田の尋問調書によれば、黒田鑑定書の数値はいずれも事故調査報告書中に記載されている全日空機、自衛隊機の飛行状態に関する諸元をそのまま使用して作成したもので、一秒ごとに何回か計算をしてみたが、それほど大きくはないがこの程度の開きが生じた旨述べており、両者の差違は、計算上の過程によるもので、且つ僅少のものであるから、視認の可否を論ずるに当つて影響を及ぼす程の差違であるとは考えらない。

(ⅲ) 以上のとおりであるから、接触約四四秒前以降についてみれば、事故調査報告書によると接触約一四秒前まで、黒田鑑定書によれば接触約二二秒前まで、従つて、証拠上少なくとも右約二二秒前までは、全日空機は隈機から見て監視可能な視界の範囲内にあつたものと認定することができる。そして、その間全日空機の視角の大きさも、前記視認可能な視角の基準のいずれに照らしても、視認し得るに十分な大きさを有していた事実が認られる。

ところで、前記のように、機動隊形訓練のため一番機を操縦する教官として、航行安全のための見張り義務が存在する範囲は、自機の進行方向の左右無理なく見える範囲(左右各六〇度余)と、訓練機の進行方向左右各六〇度余りの範囲であるから、右視認可能と認める全範囲にわたつて被告人に見張りによる視認の義務があると解すべきではなく、そのうち教官として見張り義務のある右範囲内にある全日空機に対してのみ視認の義務があつたものというべきである。してみると、被告人市川についての項で後述するように、証拠上少なくとも接触約四四秒前から約二七秒前までの間は、全日空機は市川機の右方六〇度余りの範囲内に位置していたと認められる(なお、右二七秒前の時点において全日空機は隈機の右方八一度、上方11.6度の位置にあつて、胴体視角27.12分、翼視角21.26分であつたとされている。)のであるから、被告人隈は、教官として、この間において見張りを尽すことによつて全日空機を視認すべきであつたといわなければならない。

(ⅳ) ところで、黒田鑑定書では「接触四五秒前から三〇秒前の間において、被告人隈の視線は右後方の市川機から、前方及び左前方に非常に速く移動し、再び速やかに市川機に戻り、全日空機はその視線運動軌跡の下方約一五ないし二〇度に存在するため、全日空機の視角の大きさから視認可能な大きさであるが、視線移動速度、視線運動軌跡からのへだたりを考慮すれば、全日空機の視認は不可能ではないが困難性があつたと考えられる。」としている。なる程右に指摘のような事情により全日空機の視認が単純に容易であつたとはいいえないものとは考えられるが、視線移動速度が本件視認の可否についての結論を左右するものでないことは前述したとおりであり、また、視線移動軌跡からのへだたりも、右鑑定書自体が指摘している如く一五ないし二〇度の程度(同鑑定書は他の箇所で視線運動軌跡から上下に三〇度以上離れている目標物は見落される可能性が大となると述べている)であること、視線は水平にのみ移動するものではないこと、また、市川機はこの間水平直線飛行中であつたこと、その他この間の全日空機の前記視角の大きさ等を総合考慮すると、右事由のために被告人隈の視認が特に困難になつたものとまでは考えられない。さらに、黒田鑑定書によれば、接触三〇秒前以降につき、「左旋回開始後は、経験の浅い市川機を監視するため市川機から視線を離すことができない。また次第に全日空機の翼下面を見上げる状態となりコントラストは低下している。市川機に視線が固定している場合には中心視線から六〇度以上離れてコントラストの低い全日空機の視認は困難である。」としている。しかし、右の理由は、いずれの点についても被告人隈が市川機にのみ視線を固定することを前提とする見解であつて、教官の任務が訓練機の監視のみでもつて足りるものでない以上、到底採用することができないものであるばかりか、コントラストと視認の関係については前述したとおりであり、また、前記接触二七秒前の時点においても、全日空機は実際注視野における両眼視可能な範囲(左右各一三二度)内にあるのみならず、その視角は前記のとおり十分な大きさを有していたことが認められるのである。従つて、なるほど機動隊形の旋回中であるため、経験の浅い市川機の監視に努力を要し、且つ自機の進行方向も刻々変化し、加えてコントラストの低い全日空機の翼下面を見上げる形となつたものではあろうが、上記のような理由(なお黒田鑑定書によつても接触三〇秒前には全日空機の視角は、被告人隈が市川機に注意を注いでいたとしても、左方に何等かの目標の存在を知覚しうる程の大きさを有していたとしている。)に照らせば、右接触約三〇秒前から約二七秒前までの間において、特に被告人隈の視認が困難であつたということはできない。

(ⅲ) 視認可能性についての結論

以上のとおりであるから、被告人隈は、前記の方法により、教官としての見張りを行つておれば、少なくとも直線飛行を継続して接触約四四秒前から約三〇秒前まで、及びこれに引き続き左旋回に移行した後接触約二七秒までの間(別紙第三の図面参照)に、全日空機を視認することが可能であつたと認めることができる。

ロ 接触予見の可能性

被告人隈が右の間において全日空機を視認していれば、全日空機と市川機の相対位置関係及び相互の進行方向から判断して、両機が接触することを予見することが可能であつた(黒田鑑定によれば数秒間の視認継続により予見が可能であつたとしている。)ものと認められる。

(4) 予見義務違反

前記認定のとおり、被告人隈は、本件「盛岡」空域において、機動隊形訓練の一番機を操縦する教官として、編隊の航行安全確保のため、自機の進行方向の左右無理なく見える範囲(左右各六〇度余り)及び訓練機の進行方向左右各六〇度余りの範囲に対する見張りを厳重にして、少なくとも接触約四四秒前から約二七秒前までの間(別紙第三の図面参照)に、全日空機を視認し、市川機との接触の危険を予見することが可能であり、従つて、これを予見すべき業務上の注意義務があつたものである。

ところが、被告人隈は右義務を怠り、その供述によつて認められる如く、接触直前である接触約二秒前に、ようやく市川機のすぐ斜め後方にある全日空機を発見したものである。この点につき被告人隈は、当公判廷において、訓練中見張りは懸命にやつていたもので自分としては手落ちはなかつたと思うと供述している。なるほど被告人隈の心理としては、見張りをも含めて当日の訓練指導に十分の努力を尽していたつもりであつたものと認めるに難くないが、前記認定の事実関係に照らして考える以上、被告人隈に右義務の懈怠があつたものというほかはない。その原因としては、被告人隈が前記の間、技量未熟な市川機に対する追従監視に注意を奪われる余り、市川機の進行方向及びその左右に対する見張りを必ずしも十分に行わなかつたため、全日空機に対する視認が遅れたものと考えられる。

(二) 接触回避の義務

次にに、被告人隈が、見張りにより全日空機を視認し、同機と市川機との接触を予見したとすれば、その結果の発生を回避するに適した措置をとり、未然に事故の発生を防止することができたか否かにつき検討する。

被告人隈が、全日空機を視認して接触を予見し得、且つその義務があるのは、前記認定のとおり、接触前約四四秒前から約二七秒前までの間であるところ、それによつて被告人隈が機動隊形訓練の編隊一番機を操縦する教官として、全日空機と市川機との接触を回避するためとるべき措置は、直ちに、無線によつて被告人市川に対し、全日空機との接触を回避するための適切な操縦操作について指示を与えることにより、同被告人をしてその回避操作を実行せしめることであることは、明らかである。

そして、航空機操縦者の空中衝突回避のための視覚及び反応時間については、防衛庁航空幕僚長作成名義の「パイロットの反応時間に関する資料送付について(回答)」と題する書面、全日本空輸株式会社社長作成名義の捜査関係事項照会回答書(昭和四六年八月一二日付)、黒田鑑定書及び証人黒田勲、同後藤安二の尋問調書によれば次のような事実を認定することができる。

この点に関する資料としては、アメリカのモゼリー(MOSELEY)のデータが最も信頼性あるものとして一般に使用されているところ、右データによると、航空機操縦者が接近に関する情報が全くない場合に、何等かの映像の存在を認め、それを接近する航空機と認知し、回避方向を判断し終るまでに要する時間は、小型機であれば合計して5.445秒間であり、そのうち知覚して回避操作をするまでに3.445秒間、航空機の機体に反応が生じ回避するまでに2.0秒間を要するものとされている。右データ以外の資料においても、F―86Fジェット戦闘機のような小型機の場合には、概ね五秒ないし七秒間で回避が可能であるとされている。

ところで、右の各データは、いずれも航空機操縦士が自機に対して接近して来る航空機との衝突を回避するため、自ら知覚、判断、回避操作を行うことに要する数値であつて、本件の場合における被告人隈のように、他をして回避措置をとらしめることによつて結果を回避するために要する時間として直ちに適用しうるものではない。しかし、被告人隈が被告人市川に対し無線により全日空機との接触を回避すべき指示を与え、同被告人が右指示を了解し、回避操作を開始するまでに要する時間は、数秒間あれば十分であると考えられるから、本件において、被告隈が全日空機を視認して、市川機が回避を終えるまでに要する時間は、前記データを基にして判断すると、約一〇秒前後で足りるものと考えて大差はない。

以上のとおりであるから、被告人隈が前記の接触約四四秒前から約二七秒前までの間に全日空機を視認し、市川機との接触を予見しておれば、十分に結果の発生を回避するに適した措置をとり、本件事故の発生を未然に防止することができたものであり、従つて同被告人には、そのような措置をとるべき義務があつたといわなければならない。

(三) 同被告人の有責性

被告人隈は、前記訓練過程の項に認定のとおり、航空自衛隊における所定の訓練課程を終了後、昭和四一年六月T―1ジェット練習機操縦教官課程、同四四年一〇月計器飛行教官課程、同四六年六月F―86Fジェット戦闘機操縦教官課程の履修を終えて右各教官資格を取得し、またその間航空従事者技能証明書、計器飛行証明書(緑)を取得し、昭和四五年三月二日上級操縦士の資格を付与され、昭和四六年七月一日から第一航空団松島派遣隊に配属され、同隊の教官としてF―86Fによる戦闘機操縦課程の訓練生に対する編隊飛行等の飛行訓練等の指導を行つていた者で、総飛行時間は約二四八〇時間で、そのうちF―86Fジェット戦闘機による飛行時間は約七三〇時間である。被告人隈はF―86Fジェット戦闘機操縦教官課程を終了して間がなく、教官として約一月間勤務した段階であつて、同課程の教官としては十分に熟達していたものとまではいえないにしても、一人前の戦闘機操縦者として、同じ任務を付与されていた他のF―86Fジェット戦闘機操縦課程の教官と比較して、その能力において劣つているところがあつたとも認められず、その他同人の責任能力を阻却すべき事由は何ら存しない。

従つて、被告人に対し、本件機動隊形訓練中、教官としての上述の業務上の注意義務を尽すことによつて、本件事故の発生を未然に防止することは、不可能ではなかつたものと認定することができるので、同被告人の本件事故に対する有責性は、これを肯定すべきものというほかはない。

3 被告人市川について

(一) 見張りによる接触予見の義務

(1) 見張りの方法及び見張るべき範囲

イ F―86F戦闘機操縦者としての見張りの方法及び見張るべき範囲

飛行一般及びF―86F戦闘機の操縦に際して現実に行われている見張りの方法については、既に被告人隈に関する該当箇所で述べたところである。また同戦闘機の操縦者が、機動隊形飛行の場合をも含めて、航行安全確保のため、通常見張りをなすべき範囲が、自機の進行方向の無理なく見える範囲(左右各六〇度余り)であることも、前述したとおりである。従つて、このことは、以下に述べる理由をも併せて、基本的には同機を操縦する訓練生に対して妥当する事柄である。即ち、訓練生であつても、可能な限りは自機の航行安全確保のため右の範囲の見張りを実施しなければならないものである。

ロ 編隊飛行における見張り範囲の分担との関係

ところで、編隊飛行の場合に、前方の見張りの任務を負うのは、主として編隊長機としての一番機の操縦者であると認められるのであるが、だからといつて、他の僚機の操縦者が前方の見張り義務を負担しないというものでないことは、証人寺材純郎、同石塚勲らがそれぞれ供述しているところであり、且つ、これらの供述を待つまでもなく、編隊とはいえ各機が独立に飛行をしているものである以上、各自において自機の航行の安全を確保すべく見張り義務を負担することは、当然の事理であると解される。

また、航空自衛隊においては、編隊飛行の場合に、通常編隊各機の間で見張り範囲の分担がなされ、機動隊形におけるそれは、証人吉田光の供述によると、一番機は自機の真横から前方全部を、二番機は自機のやや左前方から一番機の後方付近までを、三番機及び四番機はいずれも自機の大体正面付近から一番機の後方付近までを、それぞれ見張るものとされていることが認められる、しかしながら。航空幕僚監部編さんの操縦と戦技(F―86F)に「編隊は各種空中戦闘の基礎である。編隊の目的は戦闘機の持つ弱点をおぎない最大の戦闘能力を発揮させることにある。」とされていることからも明らかな如く、航空自衛隊における編隊飛行の本質は、戦闘目的の達成にあり特に本件の機動隊形は右操縦と戦技(F―86F)に「この隊形は戦闘間の相互支援を基本とした攻撃隊形として最良のものと考えられる。」と記述されている如く、敵機に対する索敵及び攻撃を目的とした隊形である。そして、このような隊形自体の基本的性格は、右隊形の訓練で末だ隊形保持の習得の段階にあるからといつて異なるものではあり得ない。従つて、前記のような見張り範囲の分担も、右のような戦闘目的遂行のための手段としてなされるのが本来の目的であつて、実際上はこれが航行安全のための見張りと重なる部分があるとしても、元来両者はその性質を異にするものであると考えざるを得ない。このことは、航空自衛隊第一航空団編さんのF―86Fミッション・ブリーフィング・ガイド(訓練課目教育指針)に、機動隊形の機能として、相互支援(MUTUAL SUP-PORT)、運動性(FLEXI BILITY)と並べて索敵(LOOK AROUND)が掲げられていることからも理解し得るところであろう。してみれば、右戦闘目的のための見張り(LOOK AROUND)の分担と、各機がなすべき航行安全のための見張り(OUTSIDE WATCHと呼ばれることがある)とは、その範囲においても自ら相違するものといわなければならない。

そして、平時における編隊飛行訓練等の場合は、戦闘目的の見張りが訓練の一内容として要請されるものであるとしても、他機との接触等を防止すべき航行の安全のための見張りが、基本的なものとしてより強く要請されることは当然であり、しかも、本件訓練のように旅客機の航行が多いジェットルート近辺において訓練が実施される場合においては、なお更のことである。そして前者の見張りが、証人佐伯裕章ら自衛隊関係者の供述における如く、技量未熟な訓練生の場合の「努力目標」ではあり得ても、後者の見張りがそれで足りるものであり得ないことは、あえて詳述するまでもないところであろう。

ハ 教官による見張りとの関係

教官が訓練生を伴つて本件機動隊形のような編隊飛行訓練を実施する場合は、教官に訓練機の進行方向左右各六〇度余りの範囲の見張りをなすべき義務があることは前述したとおりであるが、だからといつて、訓練生自身に右の範囲についての見張り義務がないものではなく、訓練生といえども、可能な限り、自機の進行方向の左右無理なく見える範囲(左右各六〇度余り)に対する見張りに努め、もつて自らの航行の安全を確保すべきであることは、当然の事理であるといつて差支えない。即ち右の範囲については訓練生自身による見張りのみでは一般的にいつて完全とはいい難いので、訓練生の見張りと教官のそれとによる二重の確認(ダブルチエック)が要請されていると解されるのである。

従つて、仮に、教官が訓練生の見張りを代替することによつて、訓練機の進行方向に対する安全が常に完全に確保され得るものであるとしても、訓練生自身の右見張り義務がこれによつて消滅する筋合のものではない。

ニ 機動隊形訓練における訓練生の見張るべき範囲についての結論

以上に考察したとおりであるから、一般的にいつて、機動隊形における訓練生といえども、可能な限り(可能性については後述する)、自機の航行の安全を確保するため、進行方向左右の前記範囲に対する見張りをなすべきものといわねばならない。そして、本件の場合は、旅客機等の飛行頻度の多いジェットルートJ11Lに臨接した臨時の空域で、機動隊訓練を実施したものであり、且つその危険性の事情については訓練生である被告人市川も大略のことは了知していたか、あるいは訓練生としてこれを了知し得べき立場にあつたことは、前記本件飛行における見張りの必要性の箇所で述べたとおりであるから、より一層右見張りに努める必要があつたものといわなければならない。

もつとも、被告人市川が訓練生として、本件事案の具体的事情の下において、見張り義務を負担したか否かを決するには、前出の過失犯における注意義務の項で論じたように、本件の事実関係を基にして、当該具体的状況下で訓練生として見張りをすることが可能であつたか否かを検討しなければならないので、以下この点について考察を進めることとする。

(2) 見張りの可能性

弁護人は、被告人市川のように、戦闘機操縦課程に入つてからまだ日が浅い訓練生にとつては、機動隊形訓練においてその位置を保持することだけで精一称であつて、見張りができる状態にはなかつた旨主張する。

確かに、被告人市川は、前記訓練過程のところで述べた如く、昭和四六年五月八日T―33による基本操縦課程を終了し、同日戦闘機操縦課程の履修を命ぜられ、以後F―86F戦闘機に浜松基地で約七時間、松島基地で約一四時間各搭乗し、主として基本隊形、梯形隊形、疎開隊形の編隊飛行訓練を受け、機動隊形の訓練は、事故当日の午前中に一回、午後に二回の訓練を受けていた際本件接触事故を惹起したものであり、且つ、当時訓練生としては編隊飛行中正しい位置を保持しつつ常に長機について行くこと(ステイ・ウイズ・リーダー)を強調されていたものであつて、このことからすれば、被告人市川程度の訓練生が、教官機との位置関係の保持にかなりの注意を奪われ、自機の進行方向の安全を確保するための見張りをすることに困難を伴つたものであることは推察するに難くない。

しかしながら、他面において、本件各証拠を仔細に検討すると、以下に挙げるような諸事実を認定することができる。

イ 航空自衛隊における一般指導の面についてみるに、前述のように、各種通達類においてあらゆる飛行について見張りの重要性を再三にわたつて強調していたものであるほか、昭和四五年六月八日付第一航空団指令の飛行安全確保についてと題する通達においては、異常接近防止のために、見張りの強化、特に「相互依存心の排除」の必要性、即ち各自において見張りの徹底を期すべきことを強調して指示している事実が認められる。

一方、航空幕僚長昭和四二年二月一〇日付指導の参考について(通達)によれば、「個人の練度……を的確に把握し、周密かつ漸進的に教育訓練を実施し事故要因を事前に排除する。」とされており、昭和四六年七月一日付第一航空団松島派遣隊長の昭和四六年度航空及び地上事故防止について(通達)においても、「学生の進度に応じた段階的教育の実施」を指摘し、且つ七月の月間強調項目の一つとして飛行における安全意識の高揚を掲げ、事故防止の重点事項として、「学生の練度に応ずる飛行計画、学生の進度の認識(編隊の初期であり最も注意が必要である。)」と特記し、あくまでもその段階における訓練生の能力に応じた訓練を課することを強調している。また、たとえ以上のような指摘がなくても、事柄の性質上当然のことでもあろうが、飛行訓練においては、訓練生が安全且つ効果的に訓練課程に順応していくことを可能ならしめるため、その進度に応じて漸進的に訓練課目が課せられる制度となつているものと考えられ、その難易の程度の差こそあれ、その段階における練度をもつてしては、もはや自機の航行安全を確保するための基本的な見張りさえも不可能となるような極端な訓練が、にわかに与えられるものであるとは考えられないところである。このことは、航空幕僚監部運用課長の小松利光がその検察官に対する供述調書(昭和四六年八月一一日付)において「防衛庁としては訓練生の技量、経験等からフルード・フォアを訓練中に、ある程度周囲の状況を見張る余裕がある者に訓練を行つているし、訓練生はその義務をはたさなければならない。」と供述していることからしても首肯しうるといわねばならない。

ロ 現実に編隊飛行訓練が実施されるに当つても、訓練生は常に教官から見張りを厳重にするように指示されており、機動隊形訓練に際しても「機動隊形飛行中長機を見張るのは勿論、それに止まらず出来る限り機会を作つて見張りを行うよう」指示されていたことは、工藤順一の検察官に対する供述調書(昭和四六年八月一四日付)中にみられ、同趣旨の供述は証人藤原博美の証言、小野寺康充の検察官に対する各供述調書中にも存在する。また、本件事故当日の機動隊形訓練において被告人市川自身も、当日午前訓練開始前に主任教官である小野寺康充から(同被告人の検察官に対する昭和四六年八月六日付供述調書)、午後の本件機動隊形訓練の出発に際しては被告人隈から(被告人隈の検察官に対する昭和四六年八月四日付供述調書)、それぞれ同様の注意を受けていた事実を認定することができる。

前記の如く、証人佐伯裕章らは、右の指示は訓練生にとつては実行不可能なことであるが、訓練における一種の努力目標として指示していたものである旨供述している。しかしながら、これらの証言は、機動隊形における相互支援のための見張り(LOOK AROUND)が、訓練生にとつて実行不可能であると強調しているものとも解され、そうであるとすれば、そのような意味での見張りと、航行安全のため必要な見張りとを、同一視できないことは前述したとおりであるばかりか、そもそも、全く実現不可能な事柄を、努力目標という名のもとに、その都度強調して指示するものであるかは、はなだ疑問というほかない。

ハ 被告人市川ら訓練生が事故当日までに受けた訓練内容についてはさきに認定したとおりであるが、証人小野寺康充、同藤原博美、同佐伯裕章、同工藤順一、同家田豊、同吉田光の各供述並びに第一初級、第二初級、基本及び戦闘機各操縦課程教育実施基準によると、訓練生は戦闘機操縦課程に入る以前に、既に、曲技飛行については第一初級操縦課程当時から、基本隊形、疎開隊形、単縦陣隊形等の編隊飛行は第二初級操縦課程からそれぞれ経験し、また基本操縦課程(T―33)においては単縦陣隊形の編隊による曲技飛行等をも行い、その他相当急激な上昇、下降、旋回等の飛行操作を実施し、またその間二五、〇〇〇フイート位の高高度における訓練を受けた経験もあり、その後戦闘機操縦課程に入つてF―86Fに搭乗するようになつてからは、浜松基地で単独飛行による曲技飛行を行い、速度についてはマッハ0.95まで出した経験を有し(被告人市川の検察官に対する昭和四六年八月一二日付供述調書)、松島基地に来てから事故当日までに、基本隊形、単縦陣隊形、梯形隊形、疎開隊形の各編隊飛行訓練を受け、単縦陣隊形による曲技飛行や、疎開隊形を維持しつつ急旋回を伴う上昇下降の飛行をも実施している事実が認められる。

なる程機動隊形は被告人市川ら訓練生にとつて事故当日が最初の経験であり、且つ同隊形は他の隊形に比し、長機との間隔が左右・上下に非常に離れているので、長機の動きを把握してこれとの関係位置を保持しつつ追従するのに困難を伴うであろうことは、容易に推察し得るが、そのため、右のように既に相当長期間にわたり且つ相当高度の飛行経験を有する訓練生が、機動隊形の訓練においては、もはや自機の安全確認のための見張りさえも不可能な状態となるというのは首肯し難いところである。そして、当日の二度目の機動隊形訓練も、機動隊形としては未だ緩徐な旋回に止まるものであつたことに鑑みれば尚更のことである。

なお、長機との距離が離れていることは、前記のような困難を伴う反面、同機との接触等の危険が少なく、従つて、その点だけからすれば、見張りに対する注意力の配分がそれだけ容易となることは、森垣英佐及び被告人市川(昭和四六年八月一九日付)の検察官に対する供述調書中にその旨の供述があり、間違つた供述であるとは考えられない。

ニ 防衛庁、航空自衛隊の関係者の供述にも、以下のように、訓練生の見張りが不可能なものでない旨の供述が存在する。

証人寺村純郎(航空幕僚監部教育課長)「編隊で飛ぶ場合長機だけでなく、訓練生にも見張り義務がある。但し見張りのウエイトの差はある。」「訓練を始めたばかりの訓練生は教官機について行くので一生懸命であれば、ゼロにはならないと思うが、相当落ちると思う。」「長機の方向に対しての見張り能力は、長機に追従すると同時に多分に持つているわけだし、それが一番重点になつている。」

証人石塚勲(航空幕僚監部人事教育部教育課飛行班員)「編隊の場合訓練生であつても四囲を見張るべきである。」「フルード・フォアの最初の段階では非常に困難であるが、必ずしも不可能ではない。編隊長機ばかりを一生懸命見ている状況では遠くの物は見えない。余裕のある人間にはできるかもしれない。」

証人土橋国宏(松島派遣隊飛行班長補佐、戦技課程主任教官)「訓練生は機動中は教官機しか見ていない。但し真すぐ飛んでいる状態では余裕が出来れば見渡す。見張りをする。」「当然学生としても余裕があればいろいろ見張りなり点検なりできるが、一概にこうだというやり方はない。余裕がある場合もある。」

小野寺康充(松島派遣隊戦闘機操縦課程主任教官)の検察官に対する供述調書「F―86Fに乗つた学生についてはやはり搭乗の許可が与えられている以上ロボットではないのであるから常に自分なりに判断してルックアランドに心掛けなければならない。ただ教官機と編隊を組んでいる場合には教官機について行くのが精一杯の場合もあると思う。学生が飛行中に周囲を見ることが容易なのは教官機が直進中の場合である。」

工藤順一(被告人市川と同期の訓練生)の検察官に対する昭和四八年七月六日付供述調書「特にフルード・フォアは技術的にむつかしく、見張りや自機の確認の余裕はない。ただフルード・フォアの訓練の最中でも機動のはげしくないとき、例えば直線飛行を行つている時などは周囲の見張りをしろと言われれば見張りもできる。」

ホ 被告人市川も検察官に対する供述調書中では以下のように述べている。

昭和四六年八月一一日付調書「この度の事故を振り返ると、ルックアランドをしなかつたため民間機の発見が遅れた事によるものと考えられるが、ルックアランドをしていなかつた事の原因は、あの訓練空域付近にジェットルートがある事を頭において飛行していなかつたことにある。自機がジェットルートとどれ程の距離にあるかという事を頭においているならルックアランドを十分行つてもつと早目に民間機を発見し事故を避ける事ができたと思う。」「ルックアランドの十分な余裕はなかつたが、多少の余裕はあつた。もしあの当時自機の位置や方向をつかみジェットルートに近いという事を知つていたならばルックアランドを厳重にやつていたと思う。」「事故の当時『ルックアランドをしなかつた』という部分があるが、ルックアランドを全くしなかつたというのではなく、訓練中でも自機の左右をチラチラと見ており、その限りでルックアランドはやつていたつもりである。…………従つて『ルックアランドをしなかつた』という部分は『ルックアランドを十分しなかつた』というように訂正して欲しい。」

昭和四六年八月一七日付調書「アクロバットやフルード・フォアの旋回中は見張りをするのが困難な場合もあるが、それでも見なくてよいという意味ではないし、常に旋回しているわけではないから、少なくとも旋回に入る直前までは自機及び教官機の周囲を見張る余裕はある。」

以上の各供述に対して、被告人市川は当公判廷においては「あれだけ多くの人が亡くなられたということで頭が一杯で、そういうふうに言わざるを得なかつたものである。」と供述しており、同被告人に、本件事故を発生せしめて多数の死亡者を出すに至つたことに対する贖罪感が、事故後間もない検察官の取調べ当時において、強く作用したであろうことは推察するに難くないところであるが、同被告人の検察官に対する供述調書を通読すると、同被告人は事故前後の状況を詳細に供述していて、比較的冷静に取調べに応じていることが推認し得ること、同被告人が検察官に対して見張りの余裕を肯定している供述は、前記のように一箇所に止まるものではないこと、しかも、昭和四六年八月一一日付調書における供述は、調書を読み聞かされた際、進んで訂正を申立て「自機の左右をチラチラと見て、その限りでルックアランドをしていたつもりである。」と積極的に供述しているのであるから、同被告人としてはよく考慮したうえでの供述であると考えられること、以上の諸点によれば、同被告人の検察官に対する右各供述が、真意に出たものではなく信憑性の全くないものであるとは到底考えられない。

以上イないしホの諸事実を総合して判断すれば、被告人市川程度の訓練生といえども、機動隊形による訓練飛行中、少なくとも、教官機に追従して直線飛行を継続している間は、自機の航行の安全を確認するため、その進行方向の左右無理なく見える範囲(左右各六〇度余り)について、見張りを行うことが可能であつたと認定し得るところである。なお、このことは、その他の場合には、訓練生の見張りが不可能であると断定しているのではなく、後記の本件事実関係の下においては、あえてこれを認定する必要が存しないものである。

(3) 視認及び接触予見の可能性

被告人市川が、右認定の見張り義務を尽していたならば、さきに認定した全日空機との相対飛行経路(相対的飛行経路を使用することについて被告人隈についての同所の説明を参照)を飛行中、接触前に全日空機を視認し、且つ接触を予見することができたかについて以下検討する。

イ 視認の可能性

視認の可能性を論ずるについては、諸種の要素が複雑に関係しており、これらについての検討を必要とすることについては、被告人隈についての該当箇所で述べたとおりである。以下そこで述べた順に従つて検討することとする。

ⅰ 視角以外の視認の諸要素について

(ⅰ) そのうち、視程及びコントラストについては、被告人隈について述べたところと同様である。

(ⅱ) 対象物の存在の予測の有無(心理的構え)

前出見張りの必要性についての認識の項で述べた如く、被告人市川としても、本件「盛岡」空域が、ほぼ盛岡付近上空に設定された臨時の空域であり、飛行制限空域となつているジェットルートJ11Lがほぼ盛岡市付近の上空を通過している程度のことは知つており、従つて、本件機動隊形訓練に際し見張りを一層厳重に行うべきことを認識し、あるいは少なくともこれを認識することができたものと認められるところである。してみると、被告人市川についても、この点に関する要素が視認についての消極の要因となるとは解されない。

(ⅲ) 視線固定度

視線固定度が、視認の可否に影響を及ぼすことは黒田鑑定書の指摘するところであり、訓練生である市川が、練度不十分のため、教官機に対する注視を強いられたであろうことは前述したとおりであるが、少くとも直線飛行中に、教官機に対する視認と共に、自機の進行方向に対する見張りのため、視線を転ずることが可能と認められることも前記認定のとおりであり、且つ視認の対象物が視認するにつき十分な大きさの視角を有する以上、視線移動の難易による影響もそれだけ減少すると考えられるので、本件の場合この点に関する要因が、被告人市川の全日空機に対する視認の可否を決定づけるまでの影響を有したとは考えられない。

(ⅳ) 視力

被告人市川は、遠距離視力が左右共1.0、近距離視力が左右共1.1であり、その視力に欠陥はなく、その他の点に関しては被告人隈の該当箇所に述べたとおりである。

(ⅴ) その他の要素

飛行経験に関しては既に述べたとおりであつて、視認自体を不可能にする程同被告人の飛行経験が浅いものとは認められず、その他調節力、グアレ等に関しては被告人隈について述べたところと同様である。

従つて、被告人市川に関しても、本件の場合、主として視角の大きさを基準にして視認の可否を論ずることが不合理であるとは考えられないので、以下市川機から見た全日空機の視角の大きさについて考察することとする。

ⅱ 全日空機の位置及び視角の大きさについて

(1) 全日空機が訓練機の見張り範囲内に位置した期間

さきに認定した相対飛行経路を基にして、全日空機が、どの時期に、訓練生としての被告人市川の前記見張り範囲である進行方向左右六〇度余りの範囲内に位置したものであるかについて先ず検討する。

事故調査報告によると、全日空機は訓練機からみて、接触約三〇秒前に距離3.1キロメートルの右方五八度、下方三度の位置にあつたとされており、同報告書添付図表第一六図の視界図によれば、接触約二五秒前ころまでは、ほぼ右方六〇度の範囲内にあつたことを示すような作図がなされている。一方、黒田鑑定書によれば、訓練機が直線飛行に入つた接触約四四秒前に、全日空機は訓練機から距離7.482キロメートルの右方58.1度、下方1.2度(下方157.9メートル)の位置にあり、直線飛行終了時である接触約三〇秒前の時点では、距離約3.956キロメートルの右方49.3度、下方2.3度(下方157.9メートル)の位置にあり、次いで左旋回に入つた後接触約二七秒前の時点で、距離約3.221キロメートルの右方60.3度、下方62.4度(訓練機がバンク角六〇度をとつた場合の角度、距離にして下方135.1メートル)の位置にあつたとされている(両鑑定書の数値の差については被告人隈のところで説明した。)。

従つて、右両証拠に照らして、少なくとも訓練機が直線飛行に入つた接触約四四秒前から接触約二七秒前までの間は、全日空機は、前述の本来見張りをすべき範囲である訓練機の進行方向左右各六〇度余りの範囲内に位置していたものと認定することが可能である。

(ⅱ) 訓練生が全日空機を視認することが可能であつた期間

訓練生が、機動隊形訓練中であつても、少くとも直線飛行中は、自機左右の前記範囲に対する見張りを行うことが可能であると認定できることは前述したとおりであり、且つ被告人市川が直線飛行中であつた接触約四四秒前から約三〇秒前までの約一五秒間における全日空機の位置が、見張り可能な右の範囲内に含まれることは、前項で認定したとおりである。

そして、その視角は、黒田鑑定書によると、接触約四四秒前に胴体視角16.24分、翼視角7.48分、接触約三〇秒前に胴体視角32.15分、翼視角13.09分であつたとされており、事故調査報告書によると接触約三〇秒前の視角は二一〇分であつたとされている。

右によれば、市川機が直線飛行をしていた右の期間、全日空機は、被告人隈に関する箇所で掲げた視認可能になつ視角についてのいずれの基準に照らしても、視認するに十分な大きさの視角を有したものと認定することができる。

黒田鑑定書は「接触四五秒前から三〇秒前までは機動隊形のまま水平飛行を実施している。この間、隈機との間隔、高度の保持及び自機の姿勢、速度の維持のため外界に対する見張りの余裕はないと考えられる。隈機から視線を離すことは考えられないので、隈機と反対側にある全日空機を視認することは不可能であつたと考えられる。」としている。しかしながら、訓練生といえども少くとも直線飛行中においては、長機を注視するのみならず、航行安全のために前記範囲の見張りをなし得るものと認められることについては、さきに詳述したとおりである。しかも、右の間全日空機の視角は、視認可能な視角に比べて十分に大きいものであるのみならず、逐次その大きさを増しており、且つその位置はほぼ水平線上付近を移動していた(視線移動軌跡からの隔りが少い)こと等によれば、むしろ、それだけ視認の容易性を増していたものといわねばならない。従つて黒田鑑定書中の右見解は採用し難い。

ⅲ 視認可能性についての結論

以上考察したとおり、被告人市川は、訓練生として、本件機動隊形訓練の状況の下で、少なくとも接触約四四秒前から接触約三〇秒前までの一五秒間教官機に追従して直線飛行を継続していた期間(別紙第三の図面参照)に、全日空機を視認することが可能であつたということができる。

ロ 接触予見の可能性

被告人市川が、右の間に全日空機を視認していれば、その相対位置関係及び相互の進行方向から判断して、自機が全日空機に接触することを十分予見し得たものと認定することができる。

(4) 予見義務違反

以上のとおりであるから、被告人市川は、本件機動隊形訓練における訓練生として、前記範囲に対する見張りに努めることにより、少なくとも前記直線飛行期間中である接触約四四秒前から約三〇秒前までの間(別紙第三の図面参照)に、全日空機を視認し、これとの接触を予見することが可能であり、従つてこれを予見すべき業務上の注意義務があつたものである。

ところが、同被告人は右義務を怠り、その供述にある如く、被告人隈からの緊急通信と殆ど同時ころの接触直前(同被告人の検察官に対する昭和四六年八月二日付調書によると接触1.1秒位前)に至つてようやく全日空機を発見し、左旋回急上昇して接触を回避しようとしたが間に合わず、本件事故を発生せしめたものである。その原因は、同被告人が、教官機との関係位置の保持に注意を奪われる余り、訓練生としても、可能な限り、当然尽すべき前記見張りの義務を怠つたためであるというほかない。

(二) 接触回避の義務

被告人市川が、全日空機を視認した場合にとるべき措置は、直ちに教官にその旨連絡する(ボギー・コール、F―86F訓練科目教育指針参照)こともさることながら、前記認定の接触約四四秒前から約三〇秒前までの位置関係からすれば、直ちに自ら回避操作をとるべきであつて、そのための判断及び操縦操作が訓練生であつても可能であることは証拠上明らかである。

そして、回避に要する時間については、被告人隈に関する該当箇所で述べたとおりであつて、これによれば、前記期間に被告人市川が全日空機を視認していれば、十分接触を回避し得たものと認定することができる。従つて同被告人には右回避の措置をとるべき義務があつたといわなければならない。

(三) 同被告人の有責性

被告人市川は、他の同期の訓練生と共に、正規の期間内に前記のとおりの訓練課程を経たものであつて、他の訓練生に比べて特段能力が劣つていたものとは認められない。

また、事故当日の午前中に被告人市川の第一回目の機動隊形訓練を指導した教官である木村恵一は検察官に対する供述調書中で「市川の技量は特に秀れているということもなく、又特に劣つていることもなかつた。」と供述しており、右訓練中被告人市川が教官機を見失つたことについては「失敗はあつたが教官でも多少の失敗はすることがあるので、市川の程度においては普通である。」と述べている。被告人隈も当公判廷で「市川は二回目であることもあつて、うまくついて来た。」と供述している。なお被告人市川は、午前中の訓練においてピンクカード(不可の評点)を受けた事実が認められるが、右木村恵一の検察官に対する供述調書によると、その理由は離陸時に機体を傾けて離陸したことにあつて、機動隊形等の編隊飛行の良否とは関係のないものであることが認められる。

以上のとおりであるから、被告人市川に対し、訓練生一般に対すると同様、本件の事情の下において、前記のとおり、全日空機に対する視認及び回避の義務を尽くし、もつて事故の発生を未然に防止することを期待することが、不可能ではなかつたと認定することができ、従つて、同被告人の本件事故に対する有責性は、これを肯定すべきものというほかない。

四被告人両名の過失による結果の発生

以上検討したとおり、全日空機と訓練機の接触による本件事故の発生は、被告人隈において、右接触約四四秒前から約二七秒前までの間に全日空機を視認することによつて訓練機との接触を予見し、訓練機を回避せしめるべく直ちに被告人市川に適切な指示を与えるなどの措置をとるべき業務上の注意義務があるのに、訓練機に対する追随監視に注意を奪われて見張りを十分に行わないまま飛行を継続した過失、及び被告人市川において、右接触約四四秒前から約三〇秒前までの間に全日空機を視認することによつて接触を予見し、これを避けるため自ら回避操作を行うべき業務上の注意義務があるのに、教官機との関係位置を保持することに注意を奪われて見張りを十分行わないまま飛行を継続した過失が、それぞれその原因となつたものである。その結果、前記第二に認定のとおり、航行中の全日空機(ボーイング式727―200型ジェット旅客機JA八三二九号)及び訓練機(F―86F―40型ジェット戦闘機九二―七九三二号)を前記雫石町付近の地上に墜落させる(航空法違反)とともに、その際の衝撃等により、別紙第一被害者一覧表記載のとおり全日空機に搭乗していた池田静江ほか一六一名を全身挫滅傷等により右墜落地点付近において即死せしめるに至つた(業務上過失致死)。

本件は、右のとおり、被告人隈及び同市川のそれぞれの過失行為に基づき、同一の犯罪的結果を成立せしめたいわゆる過失の競合にあたる場合である。そして、被告人隈において、被告人市川の注意義務遵守に依存することが許される立場にあるものでないことは、前示三、2に説示したとおりであつて、本件事情の下で右結果の発生を予見しえたことは明らかである。また、被告人市川においても、前示三、3に説示したとおり、自己の責任において見張りをなすべき義務がある以上、それを怠つた場合に、本件事情の下で右結果の発生を予見しえたことも、また明らかである。従つて、被告人両名の各過失と、本件結果の発生との間には、いずれも相当因果関係が存在し、被告人両名共にその責任を免れないものである。

第六全日空機側に関する問題

一全日空機側の問題と本件過失犯の成否

弁護人は、本件接触事故につき、全日空機操縦者は自機前方の見張りを怠り市川機を視認せず、または視認するも回避操作を怠つたものであり、この点において、全日空機操縦者に過失があつた旨主張する。ところで、右の点が被告人らの本件過失犯の成否に対して、どのようにな関係を有するものと主張しているのかは、必ずしも明らかではない。そこで、以下考えられる事項について考察することとする。

先ず、弁護人の右主張が、本件事故の発生が被告人らの過失に因るものではなく、専ら全日空機操縦者の過失に基因するものである旨主張するものであるとすれば、被告人らに本件事故発生につき注意義務違反があり過失責任が存在することは既に認定のとおりであるから、もとよりその主張は失当である。

なお、弁護人は、右に関する主張の中で、全日空機が市川機に追突したとの表現を用いているが、立体的な空間において航空機が相互に接近した場合、単純に一方が他方に追突したと評価するのは正当といえないばかりでなく、本件においては、前記認定のとおり、全日空機と市川機との接触直前の飛行経路のなす角度は五ないし七度であるから、その瞬間のみをとらえれば、あたかも追突という表現が妥当するかのようであるが、そもそも、市川機が全日空機に対する視認及び回避が未だ可能な接触約三〇秒前の時点においては、前記認定のとおり、全日空機は市川機の右方約五八度前後に位置していたのであつて、市川機は右の位置から左旋回を開始継続し、しかも若干の降下をしつつ全日空機に接近して行つた(別紙第三の図面参照)のであるから、右の経過に照らして考察すれば、前記接触直前の部分のみをとらえて、全日空機が市川機に追突したと評価することが誤りであることは明らかである。

次に、弁護人の右主張が、過失犯におけるいわゆる信頼の適用がある趣旨の主張であるとした場合について考察する。元来、信頼の原則は、近時、高速度交通機関の運転、その他必然的に危険を伴う行為でありながら、社会的効用の高度な業務の範囲が漸次拡大するに従い、これらの業務に従事する者に対して事実上の絶対的責任を課する結果となることを避けるため、その注意義務に合理的な限定を加えるべきであるとの理念に基き発展した理論であつて、危険業務に従事する共同作業者間における相互信頼を肯定することを基本とする原則である。そして、これが交通関係において適用される場合は、法規に従い正常な運転をしている者が、他の交通関与者の法規に従つた正常な行動を期待することが、社会的に見て相当であると評価し得る場合には、これを信頼して運転すれば、特別の事情のない限りそれで足り、他の者があえて法規に違反し、その他危険な行動に出ることまで予想して、法益侵害の結果を防止すべき注意義務は存しないという法則となる。即ちそれは、他の交通関与者の適切な行動をあてにして運転することが、社会的見地からみて相当と評価される場合のみ適用されるものである。

してみると、本件におけるように、航空機の操縦に従事する者が、他の航空機操縦者が進路前方の見張りをしているからといつて、これをあてにして航行の安全のため自己に要求される進行方向(教官にあつては訓練機の進行方向を含む)及びその左右に対する基本的見張りを尽さなくてもよいということにならないのは、当然のことであつて、この点において既に信頼の原則を容れる余地は存しない。

このことはまた、前記認定の如く、当時航空機間の異常接近防止の対策につき、関係機関において、種々検討がなされていたが、特別管制空域の設定、訓練空域の完全分離、レーダーの活用等の方策が未だ具体化されず、操縦士各自による見張りが最大の事故防止対策であるとして、その厳重な実施の必要性が、あらゆる機会に強調されていたことに鑑みても明らかなところである。

勿論、弁護人も指摘する如く、計器飛行方式によつて飛行する旅客機であつても、航空法上、有視界気象状態においては、見張り義務を免れるものではなく、この点において有視界飛行方式により飛行する他の航空機との間に優劣の差はない。しかしながら、前示認定の如く、本件「盛岡」空域は、松島派遣隊における常設訓練空域ではなく、当日になつて訓練の必要上臨時に設定された空域であるうえ、ジェットルートJ11Lに隣接しており、且つ右空域で実施しようとした前記機動隊形による編隊飛行は、上下、左右、前後に大きな飛行空間を必要としつつ旋回を繰り返す飛行態様であるから、そのような場所で、そのような飛行をなす者としては、右ジェットルート近辺を飛行する航空機に対する見張りを、自らにおいてより十分になすべきであつて、これを不十分にして、主として大型旅客機である相手方機の操縦者の見張りを期待しつつ飛行を継続することなど、到底是認される筋合のものではない。

二全日空機操縦者の視認及び回避について

全日空機操縦者の視認及び回避の点における過失の有無が、被告人らの本件過失犯の成否に影響を及ぼすものでないことは、前述のとおりである。しかしながら、その如何は、被告人らに対する量刑上の問題としては考慮せざるを得ないところであるから、以下この点に関する事実関係につき、必要な限度において考察しておくこととする。

1視認の可能性

事故調査報告書によれば、接触約二〇秒前の時点において、訓練機は、全日空機の左方六五度、上方四度の距離1.4キロメートルの位置にあり、視角は二四〇分2であるとされており、黒田鑑定書によれば、同時点において、全日空機の左方65.7度、上方2.5度の距離約1.956キロメートルの位置にあり、胴体視角21.51分、翼視角13.13分であつたとされている。そして、これらと証人後藤安二、同佐竹仁、同黒田勲の各供述内容を総合すれば、右二〇秒前の時点においては、全日空機操縦者が、前方の見張りを行つていれば、訓練機を視認しうる可能性があつたことは否定できない。そして、大型族客機操縦者の見張りの範囲については、証人佐竹仁の供述によれば、定常飛行中は大体左右各四五度の範囲を重点とするが、随時九〇度(真横)まで監視する方法がとられている事実が認められる。また、事故調査報告書及び黒田鑑定書のいずれによつても、右二〇秒前から一〇秒前頃までは、訓練機は全日空機から見て殆ど同一位置にあり、しかも、その視角は次第に増大しつつあつたことが認められるのであるから、この点からしても、右時点における訓練機に対する視認可能性の程度は加わるものと考えざるを得ない。

2視認の有無

全日空機操縦者が、接触に先立つて、現実に訓練機を視認していたか否かにつき、事故調査報告書は、全日空機機長が接触の直前、直後にブームマイクの送信ボタン(操縦輪の左先端スタビライザー・トリムスイッチの裏側にあり、操縦輪に手をかけた正常な握り位置で、人指し指の腹の部分が触れる位置にある。)を空押しした(一四時二分32.1秒から32.4秒までと同分36.5秒から44.7秒まで)ことから、次のような推論をしている。即ち「接触約七秒前の雑音が発せられた時点において、全日空機機長は自己機の間近に訓練機を視認し、またはそれ以前から視認していた訓練機が予想に反して急速に接近して来たため、操縦輪を強く保持したと考えられる。接触約2.5秒前の雑音が発せられた時点においては、全日空機機長は訓練機が自己機の斜め前方に接近して来たため緊張状態になり、操縦輪を再度強く握りしめたと推定される。この直後全日空機機長は接触による衝撃を感じ、ついで自己機が異常な飛行状態になつたため、引き続き操縦輪を強く握りしめ機体の立て直しに努めたものと考えられる。」としている。

接触時刻を二分三九秒ごろとするならば、事故調査報告書の右のような推論もあながち不当とは思われず、起こり得ない事態ではないと考えられる。しかしながら、接触時刻を右のとおりに断定し難いことは前述したところであり、また、右推論自体にも以下のような疑問を容れる余地があつて、これをそのまま採用するのは躊躇せざるを得ない。即ち、事故調査報告書が述べるように、接触約七秒前に全日空機機長が訓練機を視認していたとするならば、前記認定の事実関係からしても、この時点において、少なくとも危険な状態にあることについてもこれを認識し得たと考えられるのに、ただ操縦輪を強く保持していただけでなく、他の交信が著しく阻害され、且つ自身の耳にも雑音が入るようなブームマイクの空押しを二度に亘つてなしたというのは、緊張感のためとはいえ、相当の経験を有する操縦士のとつた措置としては、不自然の感を払拭し得ないところである。

また、事故調査報告書及び<証拠>によれば、全日空機機長は午後二時二分五〇秒ころから緊急通信を発し「エマージエンシー・メイデー・メイデー・アー・アンエイブルコントロール」と発信しているが、その中で緊急事態発生の原因として他機との接触の事実については何もふれていない。このことも、全日空機操縦者が、接触までに訓練機を視認していなかつたのではないかという疑いを生じさせる一事由となるものである。

これらの点につき、<証拠>は、公判廷で「全日空機操縦者は訓練機を全然見ていなかつたのかもしれない。ノイズの解析は相当推測を含んでいるもので、決定的なことは言えない。」と、<証拠>は「一つには、見ていたがよけられると思つた場合と、もう一つは、何らかの理由で見ていなかつた場合が考えられるが、私自身としては、後者ではないかと感じている。」と、また<証拠>も「全日空機の緊急通信の中に自衛隊機のことが出てきていないので、自分個人としての想像であるが、全日空機操縦者は訓練機を視認していなかつたのではないかと推測した。」と各供述している。

以上考察したところによれば、結局、ブームマイクの雑音の分析だけでは、全日空機操縦者が訓練機を視認していたと認定するのは困難というべく、前記の各点からすれば、これを視認していなかつた可能性を否定することはできない。

3視認していたとした場合に、接触直前まで回避操作をとらなかつたことについて

上述したように、全日空機操縦者が、接触前に訓練機を視認していなかつた疑いはあるとしても、これを視認していた可能性がないわけではなく、且つ本件においては全日空機の回避措置についても争いがあるので、以下、全日空機操縦者が仮に訓練機を視認していた場合における回避操作の点について考察しておく。

全日空機操縦者が、事故調査報告書の推定するように接触約七秒前に訓練機を視認していたとすれば、両機の相対的位置関係等から、全日空機操縦者としては、危険を感じて何らかの回避操作に出るのが通常であると考えられるが、本件における如く、フライト・データ・レコーダの記録値から認められるように、接触直前まであえて回避操作をとらない結果となる事態が生じることも、以下の諸点を考慮すれば、あながち理解できない事柄ではない。

(一) <証拠>によれば、一般的に、大型旅客機操縦者が間近に接近しつつある小型戦闘機を発見した場合においても、その動きを判断して以後の進路を的確に予測することは困難な場合が多く、もし、その判断を誤つて回避操作をとれば、かえつて危険を招来する結果となること、また、大型旅客機においては機体・重量ともに大きいため、急激な動作をとることに困難を伴うこと等のため、かかる旅客機操縦者としては、視野が広く、且つ動きの容易である小型戦闘機に回避を期待し、自らは、余程の事態でない限り、定常飛行を続けた方が、かえつて安全であるとの観念を有する事実を認めることができ、一般論としては、そのような考えが不合理であるとまではいえない。

(二) 本件においては、事故調査報告書及び<証拠>によつて認定しうる事実(接触直前の相対位置関係の認定については前記第三の三の記述を参照)によれば、次のようなことが考えられる。即ち、接触約七秒前には、市川機は全日空機の左前方約三〇〇メートルの位置にあつて、約三〇度の左バンク角で左旋回中であり、四秒前においても、左方約一二四メートル先でなお左旋回を継続していたため、全日空機操縦者としては、市川機が左旋回を続行してそのまま回避して行く意図であると推測したのではないかということ、また、右四秒前の時点において、高度差がなお約15.6メートルあつたため、そのまま進行しても、接触は免れ得ると考えたのではないかということ、である。

全日空機操縦者が、右のように考え、且つ前項に述べたような一般的心理を有していたものとすれば、仮に接触約七秒前に訓練機を視認していたとしても、その判断の具体的当否は別として、そのまま定常飛行を続けても、なお僅かの差で訓練機との接触を回避し得ると判断したと考えることも可能である。もつとも、このことは、前述のとおり、全日空機操縦者が訓練機を視認していたことを前提としての理論であるうえ、接触を回避し得ると判断した可能性があることを指摘したに止まり、そのことが本件において適切であつたとまで認定するものではないから、後述する如く、この点を被告人らに対する量刑の上で不利益に考慮することができないことはいうまでもない。

(三) なお、前述のように、計器飛行方式により飛行する航空機であつても、有視界気象状態下においては、見張り義務を免れ、あるいは軽減されるものではなく、且つそれが管制承認に従つてジェットルートを飛行しているからといつて、他の有視界飛行方式により飛行する航空機に対し、何らの優先権をも有しないことは、その当否は別として、当時の制度上は当然のことである。しかしながら、前述した如く、飛行頻度の多いジェットルートの近辺を有視界飛行方式で飛行する場合は、特に見張りを厳重にする必要のあることが是認される以上、これをその反面から考えても判るように、計器飛行方式によつてかかるジェットルートを飛行する航空機操縦者としては、自らは管制承認を受けた経路、高度に従い(勿論、誤差はあり得るし、本件全日空機が一般通念上許容され得る誤差の範囲内を航行していた可能性はあつても、そのように断定することができないことは前述のとおりであるが)、定常飛行を続けているのであるから、これに接近して来る他の有視界飛行方式による航空機において、通常より以上に視認、回避を厳重にするであろうとの期待感を持つことは、その是非は別論としても、あながち理解不可能な事柄ではなく、民間航空機操縦者が、一般に右のような心理を有する事実については、<証拠>も、これを肯定しているところである。なお、この点が、被告人らに対する量刑判断に及ぼす影響については、前項に述べたところと同様である。

(量刑の事由)

一本件事故発生の背景

本件事故の発生は、既に認定したとおり、被告人らの過失に直接基因することは勿論であるが、その背景として、最近における我国の航空交通の急激な膨脹に伴う種々の問題が潜在することを見逃すことはできない。航空機事故の防止には航空機操縦者らの注意義務の遵守が不可欠であることはいうまでもないが、これのみによつてその目的が達成し得るものではなく、例えば、航空行政の適正、航空自衛隊における訓練体制の確立、民間航空業者の協力、航空保安業務の改善等が図られなければならない。本件において、被告人らの量刑を判断するについても、これらの背景的要因を無視することはできないのであり、以下、この点について考察する。

1航空行政の実情

(一) 運輸省の航空行政と防衛庁の業務との調整について

我国の航空交通管制業務は、航空法九六条により、運輸大臣の所管事項とされているが、同時に、防衛庁が管理する飛行場及びこれに発着する航空機に係る一定の管制業務については、同法一三七条三項により防衛庁長官に委任されている。そして同条四項により、運輸大臣は、防衛庁長官の行う右業務の運営に関する事項を統制することとされているものの、これが、必ずしも円滑に機能していたとは認め難く、両者の運営が個々的に行われ、かかる実状に対しては航空関係者の間でも早くから“管制の一元化”の必要性が指摘されていた。

本件の各証拠に現れた限りにおいて、右両者間の調整の状況をみるに、本件事故当時、運輸大臣と防衛庁長官との間に「運輸省の航空行政と自衛隊の業務との間の調整に関する覚書」(昭和三四年六月二三日付)が交わされていた。右覚書によれば、運輸大臣は航空交通管制区、航空交通管制圏及び航空路を指定する場合には、あらかじめ防衛庁長官と協議するものとする(第一条)、防衛庁長官は自衛隊の施設を設置しようとする場合に当該施設が航空機の飛行に影響を及ぼすおそれのあるときはあらかじめ運輸大臣と協議するものとする(第三条)、運輸大臣は航空法九七条の規定による飛行計画、航空機の位置等の通報を一定の範囲内で防衛庁長官に通報するものとする(第四条)などの事項が定められていた。しかし右協定においては、本件事故後の昭和四七年三月三日にあらためて協定された「航空交通の安全を確保するための運輸省の航空行政と自衛隊の業務との間の調整に関する覚書」に盛られるに至つた次のような事項については明確な定めが存在しなかつたのであつて、この点からみても、事故前の両者間の前記調整では安全確保上必ずしも十分なものとはいえなかつた。即ち、(イ)運輸大臣は、ジェットルートを指定し、又はこれを変更する場合にはあらかじめ防衛庁長官の意見をきくものとする(第一条)、(ロ)運輸大臣は、航空機の訓練空域及び試験空域を設定変更する場合にはあらかじめ防衛庁長官に協議するものとする(第二条)、(ハ)防衛庁長官は、自衛隊が設置する飛行場、航空保安無線施設、航空交通管制施設、その他の施設等に関する航空機の運航のため必要な情報のうち一定範囲のものを運輸大臣に通報すること(第四条)、などである。

そして、事故前、後述する航空交通管制運営懇談会の異常接近防止分科会等が数度開催せられた以外には、例えば航空自衛隊の訓練空域あるいは制限空域の設定、変更等について、運輸大臣の掌理する航空行政との間に連絡、調整を図る十分な手段は講じられていなかつた。広大な空域を有する米国においてさえ、下記の米国連邦航空局のニアミスに関する報告書の中で、軍のVFR訓練飛行経路について、その位置と運用期間を最大限に公表することの必要性が指摘されているのである。

(二) 高高度管制について

例えば、FAA(米国連邦航空局)のニアミスに関する報告書(昭和四四年七月)は、航空機相互の異常接近発生に関する要素として、(1)人的要素、(2)航空機の混合、(3)相互の目視警戒、(4)通信連絡、等の要素をあげ、現状においては空中衝突を防ぐ最も有効な方法はパイロットによる絶え間ない監視であることを強調しつつも、特に高い高度における高速度運航は、パイロットの“見て回避する”能力を減少させ、根本的には航空機の混合、特に有視界飛行方式により飛行する航空機(VFR機)と計器飛行方式により飛行する航究機(IFR機)との混合の可能性が、予期しない異常接近を多発させることを報告しており、このことは右報告書のみならず、航空関係者においてはつとに指摘されていたところである。

ところで、我国の航空交通管制の状況は、前記第五、二、2において述べたとおり、昭和三六年一〇月三一日付空管第二六八号「高高度管制の実施について」によつて高高度管制方式を採用(昭和三七年五月五日より実施)するに至り、我国領土及びその周辺上空二四、〇〇〇フィート(七、三〇〇メートル)以上の空域を高高度管制区と定めてその全域を管制の対象とした(エリア・コントロール)のであるが、右管制の対象となる航空機は、計器飛行方式(IFR)により飛行する航空機に限られ、有視界飛行方式(VFR)により飛行する航空機には従前の諸規則(航空法施行規則五条四号)をそのまま適用することとした。即ちそれは、同一空域におけるIFR機とVFR機の混在を当初から予定した制度であつた。

そして、本件事故当時、このような高高度管制区内における航空自衛隊の飛行訓練は、その殆んどが有視界飛行方式によつて実施されていたのである。

このような状況に対しては、当時から、航法援助施設の改善、レーダーによる管制、管制の自動化等の近代化方策とともに、特に、高高度管制区を飛行する全部の航空機の運航を計器飛行方式によらしめ(ポジティヴ・コントロール)、有視界飛行方式による航空機との混在を排し、すべての航空機に対して管制による安全間隔を確保させることの必要性が強く指摘せられていた(泉靖二・航空交通管制の現状と将来計画等を参照)。

上述のとおり、IFR機とVFR機との混在を前提として、異常接近防止の対策を、パイロットの視認に依存しようとする制度は、伸展する航空交通の実状に鑑みる限り、適切とはいい難く、改善さるべき問題点を有していたものである。

そして、本件事故直後、総理府に設けられた航空交通管制連絡協議会が策定した昭和四六年八月七日付航空交通安全緊急対策要綱では、航空路及びジェットルート等の存在する空域から自衛隊機の訓練空域、試験空域等を分離するとともに、訓練空域を除いて、雲上有視界飛行を禁止することとしている。これは、国際民間航空機関(ICAO)によつて既に勧告されていたところであつて、本件事故を契機として漸く多種の航空機の混在を多少なりとも減少させようとする方向に向かつたものとみることができる。

(三) ジェットルートについて

右のようにIFR機とVFR機の混在を認める管制方式をとつている状態においても、主要な常用飛行経路に対しては何らかの安全対策が配慮されて然るべきであつた。

ジェットルートは、前記第五、二、2に述べたとおり、前記空管第二六八号の付図に示された高高度用航空保安無線施設を直線で結ぶ経路で、前述の所定の区域を有する経路として制定せられたうえ、直線でジェットルートを示した右付図が航空情報として昭和三七年六月一五日付航空路誌(A・I・P)に掲載されて公示された。また「昭和四四年一月九日付空制第五号航空保安業務処理規程第五、管制業務処理規程管制方式基準」において右区域を保護空域なる名称で管制上確保すべき間隔として規定されるに至つたものである。そして保護空域については、右管制方式基準としての規定以外に、何ら明文上の根拠規定はなく、従つてまた、運輸大臣による告示や、航空情報としての提供もなされていないのである。

右のような管制の制度がとられたのは、従来のプロペラ機等を主に対象とする航空路管制方式(ルート・コントロール)から、ジェット機の高速度短時間飛行の要請に応えるべく高高度空域全体を管制空域とする広域管制(エリア・コントロール)への移行を指向したものであつた。しかしながら、前記のとおり、右高高度管制区をポジティヴ・コントロール化せず、VFR機に対しては従前通りの飛行を許したまま、前記の管制方式基準のみによりジェットルートを航行するIFR機の安全を図ろうとするときは、VFR機との間に“見て回避する”以外に、何らの制度的保障も存在しないこととなる。そして、航空自衛隊あるいは在日米軍等の航空機による高高度におけるVFR飛行の増加は、これらの航空機と、ジェットルートを飛行する民間IFR機との異常接近事例の漸増となつてあらわれ、届出のあつたものだけで昭和四一年五件、同四二年八件、同四三年(一〇月まで)一三件と、右に指摘の危険が現実の事態となりつつあつた。このような状態にあつた以上、前記ポジティブ・コントロールの採用には至らなくても、特に繁忙なジェットルートを飛行するIFR機に対しては何らかの制度的保護が検討されてしかるべきであつた。

運輸省では、異常接近が問題化しつつあつた昭和四三年から、航空交通管制運営懇談会の中に異常接近防止分科会を設け、これら繁忙ルートに対する管制上の改善も検討されてはいたが、本件事故まで何らの具体的施策も実現するには至らず、事故後の昭和四六年八月七日の前記航空交通安全緊急対策要綱で、すべての航空機が運輸大臣の管制を受けなければならない特別の管制空域を拡充し、主要な幹線航空路(高高度管制区におけるジェットルートを含む。)のうち航空の輻輳する区間について特別の管制区域を新設し、これを横断する自衛隊のVFR機については専用の回廊を設定するなどの対策を講じ、いわゆるエクステンデイト・コントロール方式への方策が示されるに至つたのである。

(四) 異常接近防止対策について

前述の如く、異常接近の事例が問題化するに至つたため、運輸省が主催して、昭和四三年一一月八日、航空交通管制運営懇談会の異常接近防止分科会第一回会議が開催され、運輸省、防衛庁、米国連邦航空局、日本航空、全日空等の各担当者が初めて異常接近防止の対策について協議をした。ここでは、(イ)ポジティヴ・コントロール・エリア等の設定ないし訓練空域の分離等空域の再編成の問題、(ロ)パイロットの注意義務喚起の問題等について協議がなされ、異常接近の実態及び検討すべき課題を明確にして今後も継続して協議することとし、昭和四四年一一月に第二回、同年一二月に第三回、昭和四五年九月に第四回と協議が重ねられたが、この間、第三回の協議のあと同省航空局から次の事項を内容とする「異常接近防止について」と題する将来の方針が発表されたのみで、前記の諸課題につき現実に具体的改善策が講ぜられるまでには至らなかつたものである。即ち、右方針は、(1)特別管制空域(ポジティヴ・コントロール・エリア)の設定、昭和四五年二ないし三月頃そのための試験を実施する。東京―札幌のルートについても一五、〇〇〇フィート以上幅三〇マイルを特別管制区とする。(2)夜間雲上有視界飛行の禁止。但し防衛庁、米軍については別途協議をすることとして、とりあえずこの禁止から除外する。(3)訓練試験飛行空域の分離を実施するための検討をする。(4)特別管制空域内におけるSSR搭載の促進。(5)パイロット注意義務の喚起をする、などの事項である。しかしながら、これらについてもまた、その大部分が継続検討事項とされるに止まつたのである。

この間、昭和四四年一二月一四日には神戸市沖合で全日空所属YS―11と読売新聞社所属ビーチクラフト機の空中接触事故も発生し、同省航空局より民間航空事業者宛注意を喚起する通達が発せられ、ようやく異常接近防止についての関心もたかまりつつあつた。そして東北地方でも航空関係機関、事業者の間に仙台地方航空関係連絡協議会が持たれるようになり、昭和四五年一一月一九日、同四六年五月二七日にそれぞれ会議が開催され、仙台空港、松島基地の業務状況などについて連絡、協議がなされた。

このように異常接近防止のための抜本的対策の必要を感じ、そのための協議が重ねられていたにも拘らず、本件事故発生に至るまでは、何ら有効な具体的施策が実現するに至らず、ようやく本件事故後の昭和四六年八月七日になつて、総理府、外務省、運輸省、防衛庁の四者で構成された対策審議会で、前記「航空交通安全緊急対策要綱」が作成され、(イ)航空路、ジェットルート等の空域と自衛隊機の訓練、試験空域の完全分離、(ロ)有視界飛行方式による訓練飛行等のできる空域の制限、(ハ)特別管制空域の拡充、(ニ)雲上有視界飛行の禁止などの施策が実施されることとなつたのである。そして、これらの対策の遅れは、行政管理庁による昭和四八年九月の「航空行政監察(第三次)結果に基づく勧告」においても指適され、(イ)ジェットルートの位置及び幅員についての告示の必要性、(ロ)特別管制区の拡大、(ハ)訓練空域の設定、管理の適正化、(ニ)航空交通規則の改正、(ホ)レーダー管制官の確保などの諸点が改善を要する事項とされたのであるが、右監察による指摘もまた、遅きに失した感を免れない。

航空機の空中接触事故のもたらす重大性に思いを至すとき、これら施策の停滞は、極めて遺憾というほかはない。

2航空自衛隊における訓練体制の実情

(一) 訓練空域等の制度について

航空自衛隊においても、航空機相互の異常接近を防止することに主眼を置いていた。そして前述したように、航空路その他の常用飛行経路付近では特に見張りを厳重にして異常接近を防止しなければならないことが強調されるなど、見張りこそが事故防止の最大の手段であるとして、その徹底が繰り返し指示されていた。

しかし、見張りが現状における最も有効な事故防止手段であることは否定できないにしても、異常接近防止の基本的対策は、既に述べたように航空機の混在を解消させるべく、それぞれの用途の航空機が使用する空域を分離し、予期し得ない他種の航空機との異常接近を絶滅することにある。このことは、前記「航空交通安全緊急対策要綱」で示された第一の方策が「空港の空域並びに航空路の空域及びジェットルートの空域と、自衛隊の訓練空域及び試験空域は完全に分離することとし、後者の空域設定については、防衛庁長官と運輸大臣が協議してこれを公示する。」というものであることに照らしても明白である。

航空自衛隊における細分化された訓練空域の設定は、基本的には右の要請にかなうべき性質のものであるが、当初は、むしろ訓練中の自衛隊機相互の隔離及びその把握を主たる目的としたもので、必ずしも定期民間航空機等との空域の分離を目的としたものではなかつたと認められる。しかし漸く民間航空機との異常接近が問題化されるに従い、細分化した訓練空域の設定にあたり、航空路等の常用飛行経路との分離が考慮されるようになり、また一部には飛行制限空域を設定して、その中では止むを得ない場合を除き訓練飛行が禁止されようにもなつた。この傾向は、昭和四一年三月七日付航空幕僚長の通達によつて「最近のジェットルート等の関係から訓練空域を再検討されたい。」との指示がなされている事実によつても認めることができる。そして、松島派遣隊における訓練空域、飛行制限空域設定の経緯については前述したとおりであるが、その訓練空域自体、常用飛行経路を避けつつもこれと近接して設定されている部分もあるうえ、後述のように、同隊関係者の右空域遵守に対する意識は必ずしも厳格なそれではなく、また当時のように地文航法のみによる訓練においては、空域の厳密な維持は現実には実行の困難な事柄であつた。のみならず、これら訓練空域の設定、変更について、運輸省当局、民間航空関係者らに周知させる措置は何らとられていなかつたのである。

このような本件事故当時の実情は、事故後に至つて前記緊急対策要綱に基づきこれらの訓練空域がすべて海上に移された事実に鑑みても、民間機等との異常接近の防止を図る施策とては極めて不徹底なものであつたといわざるを得ない。

(二) 臨時の訓練空域設定について

航空自衛隊における当時の訓練空域に対する考え方の不徹底さは、本件事故当日松島派遣隊で臨時の訓練空域である「盛岡」空域を設定した際の経緯にも端的にあらわれている。これについては前記第三、二、1に認定したとおりであるが、当日の訓練計画を消化するには空域が不足することに気づいた土橋飛行班長補佐が、厳密な検討を加えることもなく自らの判断でこれを決め、その範囲についても確たる認識を持たず、且つ指で概括的に示して報告したに止まり、その上司である松井飛行班長、田中飛行隊長もその正確な範囲を確認しないまま右空域の設定を承認し、しかも教官、訓練生に対する伝達はスケジュール・ボードに「盛岡」と記載されたに止まり、何らの説明も加えられなかつた。そのため、小野寺主任教官をはじめ、被告人隈、同市川らは、それぞれにその範囲を解釈し、ほぼその範囲は一致していた(特に東側はジェットルートJ11Lの制限空域により限定されることとなる)とはいえ、確定的な範囲の認識を有することなく飛行する結果となつた。訓練空域の設定についてかかる安易な態度をとつた同隊幹部の考え方は、結局、局地空域内であればどこにおいても訓練をなしうるとの見解につながり、訓練空域設定の趣旨の一つである空域分離による安全確保の理念を全く没却させるものである。そして、それが本件過失犯における直接の原因をなしたものではないことは勿論であるが、そのようにして設定された空域を割り当てられて訓練飛行中の被告人両名が、前示過失により本件事故を発生させるに至つたものであることを考えるとき、これら同隊幹部のとつた措置には、誠に遺憾の思いが残るのである。

(三) 航空安全の指導について

異常接近による航空機事故防止のためには、当時の状況における限り、見張りの徹底及び定められた各種空域の遵守が最も重要な手段であり、これらに関する安全指導が万全でなければならないことも当然であつた。そして防衛庁及び航空自衛隊が、これらに関し、累次必要な通達類を発し、あるいは各種資料を作成、配布し、また訓練課程における学科教育として飛行安全の課目を置いて指導に努めてきたことは、前記第一、一において認定したとおりである。

にもかかわらず、これらの点を各隊及び隊員が、どの程度厳格に受け取つていたかについては、疑問を感ぜざるを得ない。即ち、松島派遣隊の教官、学生らの証人の中には、同隊の訓練準則に明定されている飛行制限空域、訓練空域等の位置及びその意義について、十分認識理解していないとしか思われない供述が多くみられた。このような安易な意識は、前記の臨時の訓練空域のずさんな設定にもよくあらわれている。更には、既に指摘したように、訓練生の航行安全のための基本的見張りさえ努力目標にすぎないと供述している。かかる認識をもつてしては、いかに航空安全指導についての形式的施策がなされていたとしても、その実効をおさめ難いことは蓋し当然というべきであろう。

3民間航空の実情

(一) 近年、航空交通に対する需要が急増し、民間航空事業の伸展が顕著となるに従い、旅客便等の繁忙化に対応する施策の必要性がつとに指摘されるところとなつていた。この傾向は、大型ジェット旅客機の導入により一層増大し、国内主要経路の繁忙度も倍加し、本件事故当時、前記認定のとおり東京・大阪・福岡間を結ぶジェットルートJ20L、同J30L等が特に利用頻度が高く、本件ジェットルートJ11Lでも、一日平均約三〇機の定期旅客機等が就航している状況にあつた。このような実情については、航空関係者の間では、“空の過密”として問題視され、また民間航空会社の乗務員の間でも、航空機の高速化と交通量の増大及び航空混難に伴い、作業の量及び密度が増加し、乗務スケジュールも過密化し、機内での喫食等が余儀なくされるなど、安全運航に対する懸念も持たれる状態にあつた(全日空乗務員組合機関紙「つばさ」三八号に、事故前からの状況としての記載がある。)。

(二) 弁護人は、これらの実情から「特に、全日空の東京、千歳間の折り返し便では、千歳飛行場到着から東京国際空港に向け出発するまでの駐機時間が、スケジュールの上でも三五分間の余裕しかとられておらず、必要な整備点検、運航管理者と機長との間のディスパッチブリーフィング、ナビゲーションログ等の作成・承認の作業に追われ、そのため、乗務員に休憩の余裕さえない状態であつた。それ故運輸大臣に提出すべき千歳・東京間のフライト・プランは、千歳到着前の飛行中の機長から無線連絡のうえ作成して提出されるのが常態であつた。このような状況のもとではいきおい航行の安全への配慮が犠牲にならざるを得なかつたものである。」と主張している。右の事実関係については、証人秦征治の供述によつてもある程度窺われるところであるが、同人の右供述によつても明らかなように、フライト・プランの右のような作成提出の方法は、航行の安全に直接影響を及ぼす原因となるものではなく、また、千歳空港での乗務員の休憩時間が、折り返し便におけるそれとしては、格別不十分なものであつたとも認められない。従つて、弁護人の右に指摘のような事情は、本件全日空機の運航自体については特段斟酌すべき事由とはなり得ない。

(三) 全日空社においても、異常接近事故の増加する状況の下で、航行の安全についてそれなりに必要な配慮を行つてきた事実が認められる。即ち、同社では、「運航規程」を定めて運航業務の一般的基準を定めているが、特に航務本部長通達「CHECKLIST使用方式」で、安全確認の必要事項をチェックリスト方式で行うことを指示しているが、その中で、機外の障碍物及び他の航空機等との衝突を回避するための警戒を怠らないように指摘している。特に、前記YS―11機と読売新聞社ビーチクラフト機との接触事故後、航務本部長の業務指示「空中衝突について」を発して、飛行中の他機への警戒を指示したほか、前記「FAAのニアミスに関する報告書」を翻訳配布して、ニアミス問題に対する啓蒙を行い、また社内安全資料「安全飛行」においても“空中衝突”問題を特集するなどして注意の喚起に努めていた。しかし、これらは、航空行政その他の現況が、前示のようなものであつたため、結局、パイロットに対する見張りの注意を喚起する以上に出なかつたのも事実であるが、それ自体意味のない措置とはいえない。なお、右「安全飛行」の中に記載されている次の文章が注意をひく。即ち「複雑な現代の航空機では計器の果たす役割は想像以上に大きく、パイロットの計器に対する依存度も大きくなるばかりである。計器が発達すればする程パイロットは計器ばかりと対話をするようになり、外の見張りがおろそかになり勝ちという皮肉な結果を招いているわけである。多くの空中衝突が昼間の天気のよい日に起つている。」と記述している。また、前掲米国連邦局のニアミスに関する報告書は「VMC状態でIFRコントロールのもとに運航している間多くのパイロットが安全確保について誤つたセンスを持ち他機の監視がおろそかになるように見受けられる。」と指摘している。真実であるとすれば重大である。

以上に述べた諸事情は、さきにも説明した如く、いずれも本件事故の原因をなすものでないことは当然であるが、本件事故に対する被告人らの過失責任を考察するにあたり、その背景をなす事情として、量刑上考慮に入れざるを得ないところであり、これを無視して被告人らの個人的刑責のみを追及するのは正当ではない。

二被告人らに関する事情

上述したような本件事故当時の実情に照らして考察する限り、航空機相互の異常接近による事故を防止するための現実的な手段としては、結局、航空機操縦者の厳重な見張りによる早期回避以外にはなかつたことが認められる。高高度における超高速の航空機の安全確保が人間の視認能力に依存していること自体に検討さるべき問題を残していたことも既に指摘したとおりであるが、そうであるとしても、現状における航空機操縦者の置かれている立場がそのようなものであり、又それが不可能なものでない以上、異常接近による不測の事故を防止するため、絶えず厳重な見張りを実施することこそが、極めて危険な業務に従事する航空機操縦者に課せられた厳粛な義務であつたといわなければならない。なお、前述したように、航空事情の最も進歩した米国においても連邦航空局のニアミスに関する報告書が「空中衝突を防ぐ最も有効な方法はパイロットによる絶え間ない監視である。」と指摘していることを想起すべきである。操縦者に課せられたかかる責務は、訓練等他の業務目的達成の必要によつて軽減されるべき筋合のものではなく、また、それらの業務目的に専念していたからといつてその責任を免れ得るものでないことも当然である。被告人両名は、かかる注意義務に違反した重大な過失により、本件事故を発生せしめたものであるが、以下、被告人らに固有な本件事故に対する情状について考察する。

1本件事故の結果の重大性

本件事故は、航空機操縦者の瞬時の不注意が如何に悲惨な事態を招来するものであるかを如実に物語つている。

全日空機第五八便に搭乗していた乗客一五五名、機長、副操縦士、機関士各一名、スチュワーデス四名の合計一六二名全員が、瞬時にしてその生命を奪われた。この犠牲者の数は、当時世界航空史上空前のものであつた。本件事故の惨状をかえりみるとき、そのいたましさは誠に胸を打つものがある。また、各被害者には、それぞれ肉親を失つた遺族たちがいる。これらの者の蒙つた苦痛と心情も推察するに余りある。

また、本件事故の社会に及ぼした影響も著しいものがあつた。かかる大惨事が社会の耳目を衝動せしめたことはもとより、国民全体に対し、近代交通機関として必須の航空機の安全性、ひいてはこれに従事する関係者への信頼感を著しく損ねたことは誠に遺憾というほかない。

被告人らに対する刑責を考える場合、これらの結果の重大性を無視することはできないが、他面、これに目を奪われる余り結果責任的な量刑におちいることはもとより避けなければならないことである。しかしながら、不注意により一旦航空機事故を発生せしめた場合に、極めて多数の犠牲者を出すに至ることはむしろ必然的な事態なのであるから、かかる高度に危険性のある業務に従事する航空機操縦者らに課せられた注意義務は極めて厳重なものであるというべく、従つて、これに違反した行為の刑責もまた重大なものと評価せざるを得ない。即ち、生じた結果の面だけからではなく、むしろその原因となつた注意義務違反という過失行為の面において、その責任が重大なものとして問われるのである。

2被告人隈について

(一) 被告人隈の経歴は、前記第一、三に認定のとおりであるが、同被告人の人柄は誠実、穏健なものを感じさせ、その勤務態度は勤勉で、上官、同僚からの評価も高く、勿論これまで刑事上あるいは行政上の処分を受けた経歴はない。

同被告人の操縦教官としての経験は、第二初級操縦(T―I)教官及び計器飛行教官の資格を取得して飛行教育隊に勤務していたことがあるほか、昭和四六年七月一日に、T―33―B教官資格(戦闘機操縦((F―86F))教官資格を含む)を取得して以来第一航空団松島派遣隊に勤務し、戦闘機操縦(F―86F)課程教官として訓練生の指導に従事するようになつたばかりである。即ち、同課程教官としては、一か月足らずの時期に本件事故を発生せしめたものであるが、同一局地空域を使用する第四航空団に長期間勤務していたことから、付近の空域については慣熟していたものと認められ、且つF―86F機についての知識及び技能あるいは教官としての指導能力に未熟なところがあつたとは認められず、同被告人に対し、安全且つ効率的な訓練指導を全うすべき操縦教官としての職務の遂行を期待することに無理があつたとは考えられない。

(二) しかるに、前記第三、二、1に述べたとおり、本件事故当日の訓練飛行に際し、臨時の「盛岡」訓練空域につき、その範囲について何ら明確な指示、説明をしなかつた上司や、それを何ら異としなかつた関係者の意識に問題があつたにせよ、被告人隈自身も、スケジュールボードに表示された「盛岡」との記載のみによつて莫然と同空域を理解し、遵守すべき訓練空域の限界をも十分了知しないまま訓練生を従えて編隊飛行に発進したのである。そして、少なくとも右空域の東側限界線となり、飛行訓練準則に明定してあるジェットルートJ11Lの両側五マイルの範囲の制限空域についても、本件飛行当時には地上の主要な目標物との関係において同ルートの位置を必ずしも正確に認識できていなかつたのである。また訓練飛行中は編隊の機位を確認しつつ飛行すべきが当然であるにも拘らず、これを十分行つていたとは認められない。これらの点は、本件事故の直接の要因となつたものではないが、操縦教官として職責上当然尽くさなければならない配慮に欠けていたものというべく、本件事故発生に至る事情としては看過することができない。

(三) そして被告人隈は、前記第五、三、2に述べたとおり、本件事故時において、操縦教官としては最も基本的な見張りの注意義務を懈怠したものである。

既に指摘したように、教官としては、自機の進行方向のみならず、訓練機の進行方向に対する見張りをも行い、編隊全体の航行の安全を確保すべき必要性があつたのであつて、この点について、被告人隈は、知識の上で欠けるところはなかつたと思われるのであるが、現実の訓練に際しては、訓練効率に対する意識が優先したためか、見張りに対する厳格性を欠いていたものと認めるのほかなく、かかる認識のもとにおける注意義務の懈怠が、前述の如くいかに悲惨な結果を招来するものであるかは自明の理ともいうべく、かくして犯した本件過失の重大性は明白である。

(四) 同時に、同被告人の刑責を考える場合、高高度における超高速の航空機の接近を、目視のみによつて認識しようとすること自体の特殊性をも考慮しなければならない。既に述べたとおり、かかる航空機の安全確保が、専ら人間の視認能力に求められていること自体、航空対策の遅れを示すものであり、この能力自体に一定の限界があることは当然である。しかしながら、如何に制度が進歩したとしても、これに従事する人間の注意能力の最大の発揮がなくしては、安全の確保は到底実現しないであろう。その意味では前記のように「見張りこそ最大の方法」なのである。そして、本件においては、前記第五、三、2で考察したとおり、少くとも接触約四四秒前以降においては十分全日空機を視認し得たと認められるところである。しかもその位置は訓練機の位置とほぼ同方向にあつたのである。もとより、瞬間的な注意力の弛緩が人間にとつて絶対あり得ないことではなく、同被告人の場合もおそらくそうであつたと推測せられ、これが同被告人の性格的欠陥に由来するものとは思われない。しかしながら、元来、本件過失の罪責は、同被告人の市民的道徳ないし規律に対する人格的欠如の故に問われる非難ではなく、高度に危険な専門業務に従事する者に要求せられる瞬時の懈怠も許されない細心の注意義務に対する違反こそがまさに問責されているのであつて、このような本件の罪質が、その量刑に関係するものであることも当然である。

3被告人市川について

(一) 被告人市川の経歴は、前記第一、二記載のとおりであるが、実直な性格者と認められ、その勤務状態にも問題とされるようなところはなく、教官からの評価も悪くはなかつたもので、勿論これまで刑事上あるいは行政上の処分を受けた経歴はない。

同被告人は、航空自衛隊に入隊後、訓練生として順次所定の課程を履修してきたものであるが、この間、他の同期生に比し学力、技能等の上で特段遅れをとつたことはなく、同期生とともに、昭和四六年五月八日、第一〇九期戦闘機操縦課程の訓練生として第一航空団に配属された。同被告人は、同課程において、必要な学科教育の履修とともに、F―86Fジェット戦闘機についての操縦能力を向上させるべき任務を与えられていたのであるが、単座機である同機を操縦して右訓練を受ける以上、訓練中における航行の安全に対し自ら最大限の努力を尽くすべき立場にあつたことも既に指摘したとおりである。

(二) そして、さきに認定した如く、被告人市川は、従前の各教育課程において、その段階に応じた操縦技術や航空安全に関する知識及び技能についての指導を受け、航行安全の重要性についての認識及びこれを確保するための措置をとるべき能力を修得する機会は十分与えられてきたのである。そして、第一航空団松島派遣隊に配属されてから約一か月足らずの時期に本件事故を発生せしめたものであるが、その間、同隊においても必要な航空安全の指導がなされていたことも既に述べたところである。

(三) しかるに、本件事案に照らす限り、同被告人は、航行上の安全の最も基本的要請である見張り義務の重大性について、その認識に不十分なところがあつたと認めざるを得ない。既に指摘したとおり、編隊飛行中における訓練生といえども、航行安全のため自機の進行方向に対する基本的見張りは、必要且つ最少限度の要請であるにもかかわらず、訓練に熱中した余りとはいえ、かかる基礎的且つ重大な注意義務を怠つて自機を全日空機に接触させるに至つたものである。その過失は決して軽視することができる性質のものではない。

(四) 同時に、高高度における超高速の航空機相互における見張りの困難性や本件過失犯の特質等については、被告人隈について述べたところと同様である。そして、被告人市川は、訓練生として本件見張りが必ずしも容易であつたとは認められず、且つ、日頃から上官より編隊精神として「ステイ・ウイズ・リーダー」の重要性を強調され、教官を信頼して訓練に従事中惹起させた事故であることも、それ故に同被告人の本件過失責任が否定され得るものでないことは既に述べた如く当然であるとしても、同被告人に対する量刑を考えるうえでは、十分斟酌されねばならない事情である。

三全日空機側の操縦士の問題

本件事故発生の経過における全日空機側の操縦上の問題については、さきに前記第六、二において、証拠上認定しうる限度内で事実関係を考察したとおりである。即ち、この点が被告人らに対する本件過失犯の成否自体に影響を及ぼすものではないが、証拠上全日空機側から訓練機に対する視認の可能性はあつたと認められ、且つ、全日空機操縦者が現実に訓練機を視認していなかつた可能性も否定することができないこと、しかし、仮に視認していたとしても大型旅客機操縦者としては、小型戦闘機が接近するのを発見した場合に、その動きを的確に判断するのが困難であり、早まつた回避操作をとるよりも、相手機の自主回避を期待して自らは定常飛行を続ける方がより安全であるとの観念を有するのが一般であり、且つ本件においては訓練機が回避して行くものと判断した可能性も考えられ、これらの事情からすれば、全日空機が接触直前まで回避操作をとらなかつたこともあながち理解できない事柄ではないこと、などである。そして右以上に本件において事実関係を明らかにする証拠は提出されていない。

従つて、全日空機操縦者において、訓練機を現実に視認していたか否かは最終的には明らかとはいえず、また、視認していたとしても如何なる理由で接触直前まで回避操作をとらなかつたのかについても右のような推測の域を出ず、且つそのことが本件の具体的状況のもとではたして適切であつたといい切れるか否かも、軽々に判断を下すことはできない。このように、全日空機側の操縦上の過程に、必ずしも明白となし得ない部分が残る以上、不明の事実は被告人の利益に扱われるべき刑事訴訟上の原則に鑑みるならば、この問題については、量刑のうえにおいても被告人らの不利益に斟酌されることがあつてはならない。

四事故発生後の事情

被告人両名は、本件事故発生後の昭和四六年八月二六日、休職を命ぜられ、以後松島基地内で謹慎の生活を送つているものであるが、被告人隈は、本件事故の道義的、社会的責任の重大性を痛感し、特に教官としての責任感から訓練生である被告人市川の過誤も自らの責任であると自覚し、犠牲者の冥福を祈るとともに、静かに控えめな日を過すなど、十分自戒の念を有していることを認めることができる。そして今後は、パイロットの道を断念し、その過ちの償いを果そうとしている。被告人市川も、若年ではあるが、その謹慎生活を通じて犠牲者に対する道義的責任を自覚し、反省の念を有していることが認められる。また、被告人らに対しては、当然のこととはいえ、既に激しい社会的非難の声が浴びせられ、被告人らは将来ともこれに堪えねばならないし、また本件事故に対する思いは終生被告人らの念頭を去ることはなかろう。

本件事故により死亡した被害者の遺族に対する補償としては、平均して男子一、二一〇万円、女子一、一一〇万円の支払いが国からなされ、和解が成立した。もとより金銭によつて回復し得る性質のものではないが事故後の事情として考慮されて然るべきである。

五結び

本件事故の発生については、その背景として前記の諸事情を無視することができないにしても、その惨事を招来させた原因は、もとより被告人らの基本的且つ重大な過失にある。元来善良な一市民である被告人らが、瞬時の不注意の故にその刑責を問われるに至つたのは誠に遺憾なところであるが、本件事案の性質、態様等に鑑みるとき、被告人らとしては法の定めに従いその過ちを償うべき筋合のものというほかなく、上述の諸事情を総合考慮したうえ、被告人らに対しては、それぞれ主文のとおり刑を科するを相当と認める。

よつて主文のとおり判決する。

(立川共生 大内捷司 本井文夫)

<別紙第一略>

別紙第三

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